価値などない(前編)【テニス】
【11月3日記】
それはまるで沼に札束を投げ入れるかのよう。
今私は、「長く短い祭り」を世に出した時の椎名林檎さんと同い年に当たる。世間一般の旬を過ぎ、明るい場所からフェードアウトしていく立場であるにも関わらず、体内を沸々と巡るは万能感。そう。万能感である。類義語は「根拠なき自信」
若ければ勝手に手に入っていたもの。けれど自ら手を伸ばしたものの方が、自分にとっては何倍も価値を持つ。そうして根詰めてやってきた後にやっと至るような、それは「しなり」。ダイヤモンドよりもやわらかく。「それ」は突如訪れる。
主観。ただ「それ」はあくまで私の感情に終始するもの。例えば公式戦に出る訳でもなく、ただ朽ちていくだけのアラフォーである私に、いくら手間をかけたところで何にもならない。それはまるで沼に札束を投げ入れるかのよう。
元々の性質として好きなものには金をかける。だから出先はほとんど似るのだが、どうにもそれはテニスに限定しても同じようで、好んだ相手とラリーをする時、高揚感にみるみる残高が減っていく。そうして散財の結果、ゲーム時には破産しているということが度々ある。始めはただ単にその分稼げばいいと思っていた。いやしかしそう簡単に給料が上がる訳ではなく。じゃあどうするか。そう。節約である。体力を削るもの、正常な判断能力を削るものに注目する。
今回相対したのは、弾道高めのゴリゴリのトップスピン。え、何なん。この人過去何処かで打ったことあったっけ。極細女性として、初見は比較的甘やかされてきたタイプなんだけど、もしかして「誰でもいいから●したい」系?
いや別にいいんだけど、そのぐりぐり回転してるの見えるっていうか、ここに来るまでの間が盛大にザワザワするっていうか。だって分かるじゃん。コレ、すっごい私の苦手なヤツじゃん。優秀な人類の脳みそは、命を脅かされた経験のあるものは本能的に忘れることができないんだって。あ、記憶の中に完全に照合するのあった。
〈速水さん、前!〉
この100本を越える「テニスな日々」マガジンの、いっちばん最初の一本に書いた、男子トーナメント級の人の打球。
バウンド。
ほらねエッ。
ぐ、と肩にかかる負荷。ダメだ。下がり切れず打点を上げられると、力が出ない。結果上に逃げるしかなくなる。上に逃して相手のベースラインに落ちたところで、同じ弾がくる。
着弾。ガットにめり込んで擦れた拍子に着火する。
私はあなたの練習のためにここにいる訳じゃない。
様子を見ながら前に入る。ノーバンでの処理。本来リズムを崩すのは本意ではない。けれどジリ貧と分かっている以上、フィールドを変えさせてもらう。
ショートクロス。なるほど上手い。ただ高ささえ削れれば、難易度はグッと下がる。左右の打ち分け。追いつきさえすれば、こっちだってショートクロスを狙える。高さを調整しつつベースラインに戻る。ただ当てただけの返球は、キャッチと似て非なる。それは聞いていない「ああ」とか「うん」。完全なる非礼だ。最低限、ちゃんと相槌を打つ。
何だコレ。ラリーと指示された、それで合ってるのか? よく分からんけど、私にとっては続くことが至上。今現在の至らなさは認めるから、みっともなくても勘弁してくれ。
先日、単純に他に受講生がいなくてプライベートレッスンと化した時間帯、担当コーチは「何する?」とウキウキした様子で尋ねた。
「徹底的にボレーを」
うんうん、とすぐさまカゴを運び始めたコーチに「あと」と続ける。
ケチるんじゃない。それはより多く享受するため。例えば一打につき一歩削ることができたなら。
「オープンスタンスでのラリーを」
例えば普段との差異。300歩分の余裕があれば、あるいは走れたかもしれない。サーブへの負荷を軽減できたかもしれない。コーチは「分かった」と言った。
ほとほと運がいいと思うのは、このコーチが私にとって最も負荷のかかるラリーをする人だということ。まだ初級にいた頃、地元の祭りの関係で一時的に月単位で振り替えたクラスの担当がこのコーチだった。
その時のクロスラリーを今でも覚えている。高い弾道。ベースライン1メートル手前に落ちたボールは伸びる。縦横比として1対2ぐらいだから、まだ当時の私でも対応できた。けれど、必死で押し返そうとしたスイング。ちょうど胸を上に開く角度での動きを繰り返していると、喉元で音が鳴り始めた。
ヒューヒューと空気の抜ける音。徐々にしづらくなる呼吸。
ヒューヒュー。喉元から内側を通って、直に耳に届いた音。
その後、まもなくラリーが切れたため、たぶんことなきを得た。必死で呼吸を整える。苦しさに胸が潰れるかと思った。一方で、ほとんど息を乱していないコーチは、時計を見て「しまった」という顔をした。そうして長引いたラリーに続くメニューの調整をかけた。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?