ヤンキー先生
前提:この場における「やさしさ」を「その人にとって本当に為になることを指摘、または教育することによって、結果その人の人生を豊かにすること」と定義する。
随分と進んだ先で振り返る。その時見渡す光景を美しいと思えるか。世間一般から見た需要の一端に「若さ」という項目があった場合、それと引き換えて構わないと思えるだけのものを、重ねた年月の間に得てきたか。思い返した末、ふと頬がゆるめば、その人は充分なやさしさを受けてきたと言える。
〈最後に勝つのはどんなヤツだと思う〉
数年前、少しだけガラのお悪い上司が言ったこと。その人は仕事だけでなく、真理に近いことを同時に教えてくれた。立場上、本来関わることのない人で、だから間近で教えを受けた時間はかけがえのない宝物だ。同期が次々出世していく中、同じ所でもがき続けていた私に、その人は言った。
〈エンジンがついてるヤツはラクなんだ。方向さえ修正すれば勝手に進むから〉〈考えるな。意味とか理由とかいいから、まず言われたことをやれ〉
にこりともしない。淡々と話し続けるその人。思い出すのはいつも横顔。聞けばその人自身、一昔前まで金髪でジャラジャラアクセサリーをつけて働いていたという。それを許容していた会社含めて信じられない。しかし言われてみれば思い当たる節はある。初めて会ったのは入社後一年経った頃。その頃は見えない圧に押されて容易に近づけなかったのを覚えている。事務所に用があるのに、中にいると入れないのだ。もう、見なくても気配でわかる。今思えば念使いだったのかもしれない。
その人は丁寧に私を育てた。いつまでもくすぶっている一介の社員より、希望ある若手を育てた方がはるかに有意義だし、評価も上がるだろう。私に時間をかけること自体、お世辞にも建設的とは言えない。もはや博打である。
〈最後に勝つのはどんなヤツだと思う〉
私だけじゃない。それでも広い管轄の中で、私にかける比重が多かった半年を「蜜月」と呼んでいる。1日4時間話を聞くこともあった。確実に時間拘束のパワハラどうこうの案件だ。しかしその間、私はただ仕事をしていたら知り得なかった多くのことを教わった。「かくあるべき」という人物像を提示する、それは授業だった。会社の利益に直接結びつくことのない「給料をもらいながら受けられた教育」時間拘束のパワハラどうこう。それは「そこまで時間をかけないと育たない私側の非」ではないと言い切れないこともまた、確か。私は奪ったのだ。それだけの人の貴重な時間を養分として成長する。
〈期待している〉
魔法にかかる。馬車馬が起動する。私は
とうに見捨てられたと思っていた。冷たい視線に、何度逃げ出したいと思ったことか分からない。それでもそんな私をまだ信じてくれる人がいた。当たり前にしてきた仕事の精度を上げる。それは仕事量を増やすことと同時進行。これが最後のチャンスだと思った。無我夢中で走った。
年月は流れ、あれから7年。
転職を経て、同じ国内とは言え異文化に触れると、それまでの当たり前が当たり前でなくなる。自分より一回りも年下の先輩に教わり、覚えが悪いと失笑され、それでも
〈最後に勝つのはどんなヤツだと思う〉
折れずに済むのはただ一人、私を信じつづけてくれた人の言葉があるからだ。その人が私に教えたのは、生き方そのもの。だからこれから先も、どんな壁にぶち当たっても大丈夫だという自負がある。
いつものように淡々と話し続ける横顔。その頬が、たった一度だけ緩んだ瞬間。
〈最後に勝つのはどんなヤツだと思う。それはな、強いヤツでも賢いヤツでもない。最後の最後まで冷静だったヤツだ〉
その瞬間、一度として見たことのない金髪の横顔が見えた気がした。この人はきっと「間一髪、一発逆転」というやつが好きなのだ。「はい」と応える。霧が晴れる。振り返ればまっすぐな足跡。自然とゆるむ頬。
やさしさにふれて。
やさしさにふれて今、今度は私が誰かのやさしさになる。
【この記事は ♯やさしさにふれて をテーマに書き上げたものです】
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