変わったのはあなた
〈怒るのは悲しいから。傷ついたって叫んでるんだよ〉
鋭い爪を立てる。時に君は、元ノラを彷彿とさせる野生の動きをする。狙いはアキレス腱。両手両足を巻きつけるようにして飛びかかってくる。固い床を爪が蹴る音に戦慄する。
「ここは乗っちゃダメ」
言われてしぶしぶテーブルを降りた君は不満げ。
「そこは削らないで欲しいなぁ」
言われてしぶしぶ爪研ぎをやめた君は不満げ。
不満げ。じっと視線を残して、つまらなそうにソファの裏に隠れる。君は。
いつからそんな悪い子になったの。前は一度で聞いたじゃない。そうなんだ、って別の遊びを始めたじゃない。
「にゃあ」
見上げる。その目。何も変わらない。見上げる。鳴き続ける。風邪の名残の嗄声。その頼りない音で、何かを伝えようと。
ひたむきに見上げるその目は何も変わらない。変わったのは。
長い外出から帰ってきた時、必死で自分のにおいを擦りつけようとする君を横目に、次の予定の打ち合わせをしていたのは。
物音がしても振り向かなくなったのは。
自分じゃなくても誰かがいれば大丈夫と思うようになっていたのは。
「にゃあ」
思えば君はいつも目の届くところに居たがったね。
台所にいれば向かいの広間に。ソファに座っていれば足元のカーペットに。テレビを見ていればテレビの裏に。何かに集中していればその対象物、iPadないし本と私の間に。
向こうで物音を立てれば、慌ててこっちを見上げたね。そんなことで怒ったりなんかしないのに。
何をしても新鮮で、何もかもが楽しくて。
そうしていつの間にか初めて家に来た時に比べて倍近くの体重になっていたね。
ずっと不安だったんだ。普通に比べて1ヶ月分小さいと言われる身体が。だからほっとして、
君がまだいないときの生活に戻ろうとしていた。無意識に。片手間に相手をするようになっていた。君の好意に甘えて。
ひたむきに見上げる目。変わったのは私だ。
本当のところは分からない。その他生物学的な分析、本能もあるだろう。それでも。例えば「両手両足を巻きつけるようにして飛びかかってくる」その行為が、長い外出を予感しての行動だったとしたら。ただ甘えたかっただけだとしたなら。
〈怒るのは悲しいから。傷ついたって叫んでるんだよ〉
まさか君は怒ってさえいない。伝わらぬ不満を溜め込んで、それでも尚、私を必要としてくれていたとしたなら。
「ダメ」なのは一体どっちだよ。
静かに見つめていると、君は不思議そうに見つめ返して、それからまた遊び始めた。向かった先に転がる小ぶりのダンボール。君が来る前、ギリギリ入れそうな大きさの箱を見つけて、穴を開けて工作したもの。お世辞にも上出来とは言い難い、怪我だけを気にして、マスキングテープを貼っただけのもの。それは。
いつの間にかボロボロになっていた。今の君の大きさでは、飛び込んでも蓋が閉まらない。中に小さなおもちゃを入れて、穴から引きずり出して、自分で遊べるようになっていた。
一辺が裂けてキバの穴だらけの、もはやゴミと言われても何とも言い返せないそれを使って、ただひたむきに遊んでいた。
その姿に、どれ程勇気づけられただろう。変わらず君が見ていてくれる。私が私を見失わずに済む。そのことがどれだけ心強いか分かる?
誰かを無条件で信じられるって、どれだけ幸せなことか分かる?
……他は? 長い留守番の間、他にはどんな遊びをしているの? 教えて。
ねぇ、おかゆ。
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