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セカンド重点強化月間【テニス】


 Qちゃんこと高橋尚子さんの座右の銘で「何も咲かない冬の日は下へ下へと根を伸ばせ」というものがある。外から見えるものが全てではない。その多くは水面下の氷山。じゃあ本体の大きさは、深さは実際如何程か。
 
 個人的なブームなのだが、最近「第2の」と呼ばれるものに手間をかけるようになった。そのためか、変わらぬ日常のベースが高く保てている気がする。
 例えば、体内の免疫細胞の60%以上が存在すると言われる「腸」。これだけ感染症が騒がれている中で、最弱の私が今日も今日とてハム太郎ばりにとっとこ走っていられるのは、「2日に一度は納豆を食べる」「外食前に納豆もしくは野菜、あるいはビタミンCを摂取する」よう徹底していることが一因として挙げられる。イメージとしては過多な油分、添加物対策として、空腹に直にではなく間ワンクッション入れる感じ。
 いや知らん。根拠の程は知らん。けど、良さそうなことをとりあえずやってみる。その結果自分に合うのか判断する。事実、調子がいい。痛み止め使ってないのも大きいとは思うが。それでもギリギリ保っている感じも今のところない。
 
 例えば「ふくらはぎ」。第2の心臓と呼ばれる筋肉は下半身の血流を心臓に送り返す役割を担っている。多少の重だるさ、疲れは押してでもいく。これはテニスによく見られることだが、仕事終わりにテニスに行くとなると、確実にふくらはぎは病んでいる。これが心と体の乖離の根源であり、だからこそきちんと手間をかける必要があった。
 ドーパミンは栄養ドリンク。だるいという身体のサインに耳を傾けて、まずケアをする、場合によってはうちっぱに行く頻度を落とす。
 実際、身体の声を無視して行った結果、よかったかというとそうでもないため、さらにランニングを加えるなど、ここまでしてもまだ足りないとして過剰にアクセルを踏んでいた。確かに危険極まりない。
 だから勇気を出して一度ベースを落としてみた。すると休息を得ることで、結果的に本番でパフォーマンスが上がった。パフォーマンスだけじゃない。そこにかける集中力も上がった。それはそうだ。仮に大人の集中力50分とて、15分単位の波の繰り返し。だから休息を充分取ることで、かえってそこに注ぎ込めるようになる。必死で打っていたサーブが、ゲーム終了間際でもきちんと機能する。
 力を抜くのが怖かった。でも抜いてみることで得たものは、思うより多かったように思う。無論このこと自体、始めからではなく、過多を通った上での所感。ペースを落としてもベースの変動の域、低値が上昇したためできるようになったこと。

 例えば2NDサーブ。
 サーブ不審に喘いでいた時、と言っても1STに頼っていただけで、元々ずっとサーブに自信はなかった訳だが、とにかく2NDに焦点を当てて練習を始めたのが去年の夏。
 スパァンってエース取れたら気持ちいいよね。でもそれは入ればの話で、だからこそプレッシャーに義務感の強く香る2NDに向き合うまでに、実に8年の歳月を要した。
 ストレスである。入っても「あ、入りましたね」で、入らなければ即失点。ストレス発散目的のプレイヤーにとって、ラリー目的の私にとって、最も縁遠く、面倒なその一手は、けれどもあることで視野を保つものでもあるのだと知る。

 トスであげたボールを見ていた。打った先を見ていた。打って終わっていた。その先へ。
 余裕。最もプレッシャーのかかる第一手。依りやすい所に依らずに済むというのは、だから大きなアドバンテージ。次のビジョンがクリアになる。「それ」は主導権を、主体性を持たせ、私という個体が培って来たことを存分に披露するための一手になる。
 だったらボディ。だったらワイド。
 取られた後が変わる。じゃあどうするかなんて経由しなくても身体が動く。それはただ目先の一点じゃない。強引に勝利を掴むための一手になる。
 いつだってうまくいかない理由を探していた、気弱な悲観主義の、それは勇気そのもの。負いたいと言ったとて負えるものではなかった責任を、自然に負えるようになる。
 
 目に見えて変わることではない。けれど確実に変わるもの。
 それは何より本人の中で。だから周りから見ればたぶん「いつの間にか変わっていた」。アハ体験。誰も打ち方が変わったなんて気にしてない。最近体調崩さないなんて気にしてない。後半の運動量が落ちないなんて気にしてない。
 でも確実に変わる。本人の見ている世界が。周りの見る目が。他の何が変わらなくても、勝手に色づき始める。勝手に関係が変わり始める。関わり方が。声のかけ方が。受けたものを他の誰かにあげることで循環するとした時、受け取るものが変わればあげるものも変わる。それを受け取った人もまた変わる。
 
「セカンドサービスがテニスの実力」そんなテーマを掲げていたテニス雑誌があった。ロジャーフェデラーの表紙を克明に記憶している。

これですね。刺さりみが深い



 自分にとって都合のいいことだけを見るのは、それはそれでアリだと思う。時間は有限。あくまでそれは楽しむための一手段。けれども、自分にとって都合のいいことだけを見ることで愛でるその感情は、果たして愛と言えるか恋と言えるか。
 盲目。確かに視野が制限されることはある。ただ、分かった上で見て見ぬフリを続けることで、じゃあ数年後、私は私を誇れるか。言葉と内実が見合わないことを、私自身が許せるか。
 
 全ては結果論。そもそもそんな風に考えるようになったのは、2NDサーブを打って来たから。そうでなければそうでないなりの話をしていただろう。
 そうして言葉通りの生き物になっていく。









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