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害の一存【テニス】
どうやら自分を過信していたようだ。
散々愛だの恋だの言っておきながら、いやだからこそたぶん私の思いはこの競技のためにならない。害というやつだ。
〈金メダルを取ることも重要なんですけど、好きな気持ちを忘れないで競技をやっていくことが今のスポーツ界に求められているんじゃないかなって〉
水泳の北島康介選手が前線を退く時に言ったことを思い出す。分母を、こと水泳に限らず、スポーツ界とするところに彼の懐の深さを思う。
結果を残して、役割は果たした。いつしか追われるように、誰かの期待に応えるようにしてきたこと。今はただ、自分が楽しむために水泳がしたい。
まず前提として結果を残した人が言うことに意味がある。結果が伴えばそこにメディアが、金が集まる。ある種アレルギーを発症しそうなレベルに、とある野球選手の動向を連日報じるのは、そこに莫大な金が絡んでいるからに他ならない。
結果その競技が発展する。このことについて7月8日ジョコビッチ選手の発言が興味深かったので引用しておく。
〈クラブレベルで、テニスは絶滅の危機に瀕している〉
ジョコビッチはセルビア出身だ。
〈もし、僕らが何かをしなければ、テニスクラブが全てパデルやピックルボールに変わってしまうだろう。なぜなら、その方が経済的だからね。テニスコートが一つあれば、その場所にパデルコートを3つ作ることができる〉
〈確かにグランドスラム優勝者についてはあれこれ話はするが、ベースレベルはどうだろうか。このスポーツで生計を立てている選手が、男女のシングルスとダブルス合わせて350~400人しかいないという事実、それは僕にとってとても気になることだ〉
〈PTPA(プロテニス選手協会)が3、4年前に実施した調査によるとテニスはクリケットと並んで世界で3、4番目に視聴率の高いスポーツであることが示された。しかしテニスは人気を利用したり、商業化したり、利益を得るという点ではスポーツの中で9位か10位だ。成長の余地は大きいと思う〉(一部要約)
ベース、だからまず欲しいのは結果であり、そこについてくる金。それありきでインフラは保護される。スポーツという無形のものでも、霞を食って残ることはできない。テニスでいうウインブルドン特等席、これ以外これといった収入源が見当たらない。この競技は決して安牌じゃない。ただ、
カメラワークでヒュンと戻ってきて真ん中に映ったのは、恥じらう様子もなく愛とか恋とか言ってるぽけんとしたパースン。「あ、もうしゃべってもいい?」と目をキラキラさせる。私は、でも。
自由奔放に駆け回るボールに瞬時に合わせ、適応する力。気まぐれを捕まえ、コントロールする力。うまく噛み合った時生まれる一つの絵。私は、ただ自分が満足する絵が描ければよかった。自分が美しいと思う放物線を自分で生み出し、それを通じて相手からも生み出されれば。それを互いに「誉」と思えるのならそれで。そのためにこの身体を使い切ってやりたいと思うほどに。
いつだったかメガネくんは「ストレス発散のため」と言っていた。
この競技の目的。成長、勝利だけが全てではない。それはこの競技を「己のリズムを整えるための一手段」としているということ。呼吸するようにラリーをする。週2回、適度に身体を動かすことで、健康体を保つ。
同時に「ストレス発散」には出力が伴う。きちんと捉えて返す、その一球一球にかかる重み。出力方向を違えれば容易くぶっ飛ぶ、それだけのエネルギーをはらんだ打球が行き来する。一つのやりとりが成立する。規定の枠組み一杯使って、思いっきり遊ぶ。ある種童心に還るような、どこか甘えにも似た、そんなやりとりが好きだった。思えば私が再びコートに戻ってきた当時、転職した仕事が大変で、たぶん無意識に癒しを求めていて、私もまた形を変えた「ストレス発散」を目的としていた。
結局私はラリーがしたいだけなのだ。
うまいこと点が取れても、自分で取ったと思えなければないに等しい。そのためには出力する必要があって、出力にはリスクが伴う。だからだ。
私が調子を上げる時、組む相手は決まっている。リスクを伴う出力のできる人。問うのは何より心の在り方。最近だと、そうだな久しぶりにナオトと組んだ時。バックハイのリターンがかつてない弾道を描いてベースラインに落ちて、この時根拠はないがインパクト直前から絶対入ると思った。
それはデュースサイドに入ったナオトがとんでもないリターンを繰り出していたからで、無意識に合わせていたリズム、スイングスピードに依る。「ああ、あの速度出していいんだ」とした私のリターンを見て、だからナオトはあの時ホッとした顔を見せた。
何を目的とするか。どんなテニスがしたいか。
少し見ない間に前いたクラスは、成熟したとても利口な集団になりつつあった。なるほど。これが勝ち方を意識した中級か。いいじゃない。私は、でも。
一人、卒業生が出ると知って挨拶に行った。
私がそのクラスに入る前からいた人で、週2で通うその人は、年齢に合わず若い人だった。その人と玉ちゃんが元々いて、その後戸塚が来て、ひここが来て、今思えば私はその時の集団が一番好きだった。
利口なんて求めてない。バカで結構。私はただ、力ある人たちと思いっきりやりとりできればそれでよかった。思いっきりリターンぶっ飛ばしても許されるような、小手先よりもきちんと全身を連動させて枠に収めるような。
調整ではなく挑戦。10回のうち9回の安牌ではなく、10回のうち3回の、けれども瞬間眩い光を放つような。次は入れてやるよと、すげえの打ってやるよとワクワクできるような。ただ勝ち残りである以上、根本このベクトルの向きが違って。
例えばそれは、退屈な日常に風穴を開けるような。
ナオトがさ、どこか窮屈そうで、「似たような球種」で分けられて、野郎の談笑してた時の方が楽しそうだった。それがちょっとだけ気になったんだ。そうすると自ずとその近くにいる人たちも似たような思いをしてるんじゃないかと思えて。
勝利は決して間違ったことに区分されない。でも今しかできないことがある。例えばそれが刹那的な魅力だとしても、賢くとった一点より、絶対取れない一点の方が私にとっては価値が高い。だから「あれどうやって返すんだよ」ってサーブや、ストロークや、スマッシュ持ってる人間が楽しく打ててるかは看過できない。
賢くなんかならなくていい。私は博愛主義者じゃない。
ぶっ飛ばすけど許せ、と思える、
自己肯定感ぶち上げてくれる人たちとテニスができればそれで完結できる、私はただの害です。