低空飛行で浮上する
泡沫のように消えてしまう感情を、言葉にして書き留める。
また、少しずつ浮上してきた。生きるエネルギーというほど大袈裟なものではないけれど、静かな凪のような達観の時期。あたたかな虚無。
人と比べて優れている、劣っているという価値判断に囚われてしまう時がある。自分は孤独で誰からも愛されないという思い込みに囚われてしまう時がある。自己否定のループの中で、自分自身の美点を見失う時がある。
そんな中でも、それとは別にフラットに他者の本質を見ようとする事もできるから、自分は捨てたもんでもないと感じられる。
みっともなくのたうち回った先に、自分に可能性を感じる瞬間があるから、また生きていこうって思える。
そしてその可能性を示し、気付かせてくれるのは、いつも自分ではなく周りの人々だ。わたし一人では、ここまでは来られなかった。
だから、素直に感謝している。
どんな人も、わたしの鏡であり、その人にとってもきっとわたしは鏡であり。どんな悪い縁も、過ぎてみればわたしの人生の一部である。
そりゃもちろん、悪い縁は切るに越したことはない。良い縁を見極める目と、良い縁を授かる器が必要である。悪い縁を切る勇気も。でもそれは言うほど簡単なことではない。
嫌いな人は嫌いでいいし、感謝できない時はしなくていい。そういう時は誰にでもある。それが自分の器の大きさなのだ。それを自覚すること。
たぶん、わたしにとって一番よくないのは自分の器を見誤り、したくない事のために無理をすることだ。無理がよくないのではない。行きたくない方向に無理して行くのではなく、行きたい方向に行くために無理をすること。
その覚悟。その赦し。
こんなふうに、達観と個人の感情が別次元であると気付けたのは、成長かな。以前は付け焼き刃の達観で感情を切り離していただけだった。
常に達観している必要はない。無理に達観する必要もない。そもそも、人間はフラットじゃないから。でもその凸凹が魅力であり、言葉や数字なんかでは測れない、命の神秘と輝き。
普通に働いている人と違って自分は普段人に会わないから、認知の修正速度は遅いんだけど、それでも少しずつ変わっているから、きっと大丈夫だって信じられる。常に信じ続けることは無理でも、信じられる瞬間があるのならそれでいい。
過去のわたしがずっと苦しかったのは、心を頑なに閉ざしていたからなのだろうなと思う。理解してくれ、本質を見てくれと喚きながら、自分を閉ざしていた。
それでは理解も愛も受け取れまいよ。
もちろん、常に開きっぱなしではいられない。無防備に開くことのリスクは嫌という程思い知っているし、扉は未だに重たい。勇気だってたまにしか出せない。でもそのたまにの勇気を上手く使えるように、考えることも感じることもやめたくないのだ。
世界はまだまだ未知で溢れている。
もっと柔軟でありたいし、まだまだ知らないものに出会いたい。
わたしはまだ、生きていたい。