わたしが持っているもの
わたしが持っているものが刃なら、人を傷つける凶器でもあり、生き抜くための術であり、またいつか誰かを守る武器にもなるだろうか。
おそらくそれは理性であり、言葉であり、わたしの生き方そのものなのだろう。
ほんとうのことをいうと、刃物ではなく毛布を持ちたかった。凍える誰かの背中に、あたたかな毛布をかけてあげられる人に憧れていた。そんな人になりたかった。
でもあいにくわたしには、無償の愛でできた上質な毛布はなく、たくさんの人の愛を拾い集めてつなぎ合わせた、つぎはぎで隙間だらけの毛布しかない。
そしてその毛布にまた、己の中にある頼りない愛と、他者の愛をつぎたして、生きていく。
本物ではなくても、冷たい風を凌ぐことはいくらかできる。隙間があるから、まだ少し寒いし、たまに刺されると傷ついてしまうけれど。
でもいつか、それが厚みを増せば、世間の冷たい風も平気になるだろうか。広げてみたら、歪な己の愛と、多彩な他者の愛により、パッチワークのように美しく味のあるものになっているだろうか。
おそらくこの闇を抜けても、わたしがさみしいと泣いた夜も、孤独にうち震えて死と見つめ合い続けた毎日も、変わらずそこに横たわっている。
自らの穴を埋めるためにたくさんの人を傷つけた罪は、わたし自身が形を変えて自分に赦しを与えながら、それでもたぶん、消えることはない。
だけど、ほんのひとにぎり、わたしがしあわせにできた人がいる事実もまた、なくならないのかもしれない。
*
わたしには、とてももったいない旦那がいて、わたしをとても大事にしてくれる。家族がついぞわたしに与えなかった温かさをわたしに与えてくれた人。
あまりにやさしすぎて、しあわせすぎて、それが怖くて、生きていることに耐えられなくなった。
優しくされすぎて耐えられない、とはぜいたくに思うかもしれないが、愛を受け取れなかった人間には、無償の愛は信用ならないもので、理解できないもの。とにかくもてあますものだ。
人生はすべて取り引きで、何かを求めるなら何かを与えねばならない。無償の愛など与えられた日には、何か自分の大事なものを奪われるのではないかと恐怖した。自分には差し出したくても差し出せる物がないことにも絶望した。
打算で人と向き合っていた当時のわたしにとって、わたしのすべてを愛されるということは、打算の裏に秘めたわたしの醜い部分まですべて暴かれることと同義だった。
だからわたしは一度逃げた。目を背けた。そしてとてもひどいことをした。ひどいことをしていれば、何も持たない自分から目をそらしていられたからだ。
そして、ひどいことをした代わりに、ひどい目にあった。あのときは、だれもしあわせにならなかった。
長い逃避を終えたあと、旦那に生涯消えぬ傷を負わせたにもかかわらず、彼はわたしが何も差し出さなくてもいいと、ただそのままでいいと言ってくれたのだった。
その言葉の真意をちゃんと理解するのに、10年近くかかってしまった。今でも見失いかける。それでも、その言葉をくれた旦那のために、わたしはわたしを生きられるようになりたい。諦めるわけにはいかないのだ。
*
わたしには強い「許せない」という気持ちがあり、目を背けている。
自分よりしあわせで自由な人を、あるいはかわいそうな人が許せないことを、わたしはまだそのどす黒い感情にちゃんと向き合えていないけど、いつか解き放てるときがくるのかもしれない。
この暗闇から抜け出したとき、わたしの中は空っぽになるという恐怖に怯えていたけど、もしかしたらそうはならないのかもしれない。
しあわせそうに見えてもこんなつまらない人にはなりたくない、と思っているのはただの勘違いで、わたしはつまらない人間じゃないのかもしれない。
欲しいものは手に入らない、と諦めるのではなく、今のわたしはもう持っていると、認めることができれば、あるいは。
そう、ほんとうはもう、どうすればいいかわかっている。
でも、ひとりのままでは怖いから。
わたしに差し出せるものは何もないけれど。
どうか、わたしの背中を押してください。
どうか、わたしの手を握っていてください。
わたしがひとりで平気に見えても、強そうに見えても、わたしのそばからいなくならないでください。
また弱ってしまったら、どうか少し休むために、迎えいれてください。
それがダメならどうか、わたしのことを片隅に覚えていてください。
わたしがちゃんと歩いていけるように、見守っていてください。
*
最後に、この言葉を綴るにあたって、先の殴り書きにコメントをくれた樫尾キリヱさんに感謝を。「本当は、解っていると思う」と、わたしを突き刺してくれてありがとう。わたしの化けの皮を、剥がしてくれてありがとう。