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『ブロンズ』
【前書き】
皆さん、こんにちは。早河遼です。
本作は大学のサークルで出している部誌の2022年度11月号に掲載してもらった作品です。今回も他作品同様に改稿なしでの掲載となります。
部誌用に執筆する作品の多くは何かしらの目標や挑戦を掲げて書いていますが、本作は「友人の提示した単語を元に書く」事に挑戦しています。まあ、友人という存在は大体ふざけるか適当に答えて困らせてくるようなものですが……。
友人「単語」
おいおい、これは流石にまずいだろ。こうなったら他の友人にも訊いてやろう。そうだ、この際三題噺にしてしまえば……。
友人2「誕生日」
友人3「緑青」
おいバカ! どう収集つけるんだよこれ! でも訊いた以上やらなきゃいけないし……う、うわああああああああああ!
……となって書いたのが本作です。
無茶振りってホント怖いね。
因みに表題にもなっている「ブロンズ」には石言葉があります。是非、読後に調べてみてください。恐らく二人の関係の行く先が想像できるかと思います。「銅」ではなく「ブロンズ」です。
庭園の広葉樹が、段々と赤や黄色に染まってきた。
工房から出た俺は、そんな情景の変化を実感しつつ、銅板屋根の家屋をぼうっと見つめた。気晴らしに吸った煙草と一緒に、秋の匂いが鼻に入ってくる。湿っていて、それでいてどこか芳ばしい。体内に染み渡る冷たい空気を十分に堪能して、煙と共に吐き出した。
秋は、好きだ。
何故なら、気候的にも精神的にも過ごしやすいから。
それに俺の人生は、秋と密接に結びついている。この家屋と工房を父から受け継いだのも、初めて彫刻を始めたのも、この時期だった。自分の作品が初めて褒められたのも、確か秋だった気がする。
……妻が初めて此処を訪れた時も、こんな景色だった。
懐かしい情景に耽っていると、肩にポンポンと、優しい感触が染み渡った。ああ、と我に返っておもむろに振り返る。優しい香水の匂いが、段々と濃くなっていく。
白い肌。整った大人顔。艶めいた長い黒髪。まるでフランス人形が命を宿したような美しい笑顔が、すぐ目の前で咲き誇っていた。
妻──麗華が会話する時は、いつも音が止まる。
『ご飯できたけど、食べる?』
何故なら彼女は、耳が聞こえないから。当然、言葉を発するのもままならない。だからこうして、手話で想いを伝えようとする。
『ああ、もうそんな時間か。そうしよう』
その想いに応えるように、こちらも手話で答える。
すると麗華は、ふっと安堵したように笑う。出会った時も、俺が初めて手話で話しかけた時も、こんな表情をしていた。この柔らかい微笑みを見ると、俺自身もどこか安心した心持ちになるのだ。
『もう何時間も籠もりっきりでしょう? 大変だね』
麗華は、心配そうな面持ちで両手を動かす。二人にとって、表情も重要なコミュニケーションツールだった。
『まあな。ちょっと作業が難航してる。けど、あと一カ月で何とか完成するはずだ』
『へえ。たしか今回の依頼主さん、結構偉い人なんでしょ? いつにも増して大変そう』
『まあ、でもプレッシャーがかかるのはどの依頼主も変わらないさ。そう考えると、大変さもいつもと変わらないかも。……久々に覗いていく?』
『うん、ぜひ。どんな感じになってるか見てみたい』
麗華の手話に頷いて、俺は工房の中へと案内する。
工房の中は、窓から白い光が差し込んできて、埃がはっきりと映し出されている。横に広々としたその空間には、馬や花、人など様々な像が置かれており、その材料も金属だけでなく粘土や石膏など多種多様だ。
まるで博物館のような内装だが、その展示物の殆どは依頼されて作った商品だ。それ故に、あと数か月すれば依頼主の手に渡って、ただの空っぽな倉庫となる。その変化もまた、彫刻家の醍醐味と言えるだろう。
『これがさっき言ってた銅像』
やがて一体の銅像の前に辿り着いた俺は、そう麗華に説明する。
すると彼女は目を見開いて、感嘆とおぼしき息を漏らす。その目の先には、前脚を空高く掲げる馬の銅像があった。
『タイトルは「飛躍」。常に目標を高く掲げたい、という依頼主の意志に基づいて作ったんだ。型は作り終えたから、あとは金属を流し込むだけってところだ』
『へぇ……また立派なものが出来たね』
手話を一旦区切り、一息つくように麗華はふっと微笑んだ。
『このお馬さんも喜んでる。今にも駆け出したくてうずうずしてる、そんな感じがするの』
『……そうか。そう言ってくれると、励みになる』
俺もそう伝えて、笑顔で頷いた。冗談とかお世辞ではなく、本心で言っているのが解る。何かの比喩表現でないことも、ちゃんと伝わっていた。
麗華には、他の人には見えない『何か』が視える。
人から大切にされている物とか、人が魂をかけて生み出した物とか、そういった物質からオーラのようなものを視認することができる。そのオーラから、物質の持つ感情を読み取れるのだという。恐らく、失った聴覚の代わりに神様から授かった、魔法の力なのだろう。
とても珍しいし、誇るべき能力だと思う。本当なら麗華の長所の一つとして数えてあげて、不慮の事故が起きないように俺が見守ってあげるべきだと自覚してる。
だが、俺にはそんなこと、できやしなかった。
妙な感覚だった。まさか麗華を巡って、彼女の能力に嫉妬することになるなんて。
いや、そもそも前提が間違っているのかもしれない。
俺が、あの作品を世に生み出さなければ、こんな思いしなくて済んだのに。
……そうだ。そうすれば今もこうして。
あの像に、麗華が意識を向けることもなかったのに。
『飛躍』の像にはもう満足したのか、それとも余程例の像が気になるのか、麗華は工房の端の方に身体を向けて、おもむろに歩き始めた。
灰色のカバーに覆われた巨大な像。まるで廃車のような様相をした巨体をまじまじと見つめ、彼女はゆっくりとカバーを手前に引く。ぶわっと埃が舞い、空中でチラチラと瞬いた。
現れたのは、筋肉隆々で凛々しい顔立ちをした、男の彫像だった。
分厚い胸板を晒した上半身と、布を巻いた下半身。上に掲げた左手には剣が携えられ、左足はせり上がった地面を踏みしめている。
さっきの馬と同様に、高みを目指して空を睨むその彫像のタイトルは──『高望み』。人生で初めて、命を削って生み出した大作で、初めて他人に認められた作品。けど、同時に大きな因縁を持った問題作。
俺の全てを形作ってくれたのに、今でさえ作らなければ良かったと後悔している、矛盾を孕んだ彫像だった。
◇
俺が彫刻の世界に初めて足を踏み入れたのは、小学生の頃だった。
ある意味生まれた時から決まっていた、運命のようなものなのかもしれない。先祖から祖父へ、祖父から父へと引き継がれていった彫刻の技術は、必然的に俺の手に渡ることとなった。学校から帰ったら、すぐ父に工房へ連れて行かれて、そこで粘土の塊と何時間も向き合う。当然、友達と遊ぶ暇なんてなく、気づいた頃には孤独になっていた。
唯一遊び相手になってくれたのが、病の関係で同居していた叔母だった。幼稚園から進級するのと同時にやってきた彼女は、幼い頃から患っていた病気のせいで聴覚を失ってしまったのだと言う。いつも家の和室で正座して待ってくれていて、綾取りやけん玉を教えてくれた。優しくて、言葉に温もりがある、そんな叔母との日々が唯一の救いだった。
学校での憂鬱を、彫刻や叔母との時間で晴らす。小学生にしては随分と過酷な日々を過ごしていたと思う。
そんな中で四年生になり、彼女が──麗華が俺の住む町に越してきた。
いつもと何も変わらない朝の教室。それが先生のたった一言で、一気に非日常感で満たされた。
先生が教室の扉に手招きすると、すぐさま秋の風と一緒に、ワンピースの女の子が入ってくる。この時、俺は思った。秋の風の色って、今まで赤とか黄色だと思っていたけど、本当は白なんじゃないか、と。それほど純白で美しいオーラが、その子から漂っていたのだ。
どんな声なんだろう、と胸を弾ませた。けど、どんなに待ってもその子は一向に喋らない。自己紹介どころか、名前すらも先生が代弁してしまう。
自分が思い描いていたものと違う。流石に違和感を覚え始めたその時、先生から衝撃の事実を明かされる。いつも通り明るく、けど淡々とした語調で。
「最後にみんなに伝えておくけど、麗華さんはね、耳が聞こえないの。だから、基本的に先生が通訳するけど、みんなも協力してね」
そんなこんなで、麗華との出会いは、クラスのどよめきと一緒に始まった。
先生は「協力して」と言ったものの、当然具体的な案があるわけでもない。その分、クラス全体がコミュニケーションの手段に困って、なかなか麗華に話しかけられない。その結果、彼女はクラスの中で孤立することになってしまった。
一見平然としているけど、寂しそうな雰囲気が漂っている、そんな背中を俺は遠くから眺めていた。今思えばいじめがなかったことが不幸中の幸いと言えるものの、それでも麗華が孤立しているところを見続けるのは流石に耐えられなかった。当時感じていた孤独の痛みを、他の人に味わってほしくない。そんな思いも心のどこかにあったのかもしれない。
女子と話すことはあまりなかったから、少し緊張した。けど、出会ってから一週間近く根付いていた不安が、俺の背中を強く押してくれた。
麗華の肩をポンポンと軽く叩き、俺はぎこちなく両手を動かした。
『……こんにちは』
初めての会話にしては、あまりにも単調で、気まずそうな一言。
手話には自信があった。叔母とコミュニケーションを取る過程で身についていったから。だけど、孤独な時間が長いせいで同級生への話し方が解らなくなって、こんな一言しか思いつかなかった。
どうしよう。結局麗華を困らせている。
急に不安になって、彼女の顔色を窺った。恥ずかしいあまり両耳が、ぶわっ、と熱くなった。
麗華はしばらくびっくりしたように固まって……やがて、ぷっと吹き出した。若干頬が紅潮していて、この子もそんな表情を見せてくれるんだ、なんて嬉しくなってしまう。
不意に脱力感が沸き起こる中で、麗華はこちらに向かってと両手を動かした。俺の手話よりも手慣れていて、流暢だった。
『あなたも手話ができるの?』
動かし終えてから「通じる?」と言わんばかりに首を傾げた。不安にさせないよう、すぐに答えを返す。
『ああ。俺の家族にも、耳が悪い人がいるもんだから。ある程度のことは話せるよ』
叔母から教わったことをどうにか捻り出しながら、慎重に言葉を組み上げて、手話に変換していく。
すると、麗華はふと安堵したような笑みを浮かべた。出会ってから初めて見た、心の底からの笑顔。蕾がぱっと開いたようなその表情に、俺はいつの間にか心を奪われていた。
『ねえ。その家族のこと、良かったら教えてくれない? その人はどうやって家族と会話しているの?』
麗華が話題を振ってくれたこと。
会話がちゃんと繋がったこと。
その全てが嬉しくて、飛び跳ねたい気分になった。
『ああ、いいよ。その人は母さんの妹で、それで……』
この日を機に、俺と麗華はお互いに孤独の穴を埋め合う関係になっていた。
彼女が他の人と手話で会話しているのが余程嬉しかったのか、いつしか先生は俺を麗華の通訳に任命し、クラスでもそれが定着し始めた。少し照れ臭かったけど、悪い気はしなかった。何故なら、結果的に麗華がクラスに馴染むきっかけになったからだ。
彼女が笑顔を見せることも日に日に増えていった。最初は人形のように固かった麗華が、段々と自然体になっていく。そんな過程を眺めているだけで、何故か自分のことのように嬉しく感じるのだ。
……麗華を一人の女性として好きになったのも、ちょうどこの頃だったと思う。
麗華がクラスの空気に慣れてきて、いろんな表情を見せるようになってから、彼女の魅力がどんどん増してきた。元々の顔立ちの美しさも相まって、どんな表情、仕草をしても目の前の景色が鮮やかに見えてしまう。
だけど、想いを伝えることなどできやしなかった。自分が奥手で不器用なこともそうだけど、何よりも当時の麗華が明らかに恋愛に興味を持っていなかったのだ。
『またお手紙入ってた』
その日も自分の席に着くなりそう言って、困ったように微笑んでいた。当然っきゃ当然だけど、麗華はいろんな男から頻繁に告白されていた。
『また断るのか?』
『うん。相手には気の毒だけど』
俺の質問に対して、言葉を一つ一つ選ぶように麗華は手を動かした。
『恋ってきっと、そんな簡単に手に入れられるものじゃないと思うから』
その一言に、俺は余計に打ちひしがれた。
不安もより一層増した。もし仮に告白しても、受け入れられないどころか、せっかく結びついたこの関係が一瞬にして断ち切られてしまうんじゃないか。そんな想いが毎日のように俺を襲った。
きっと、言葉にしても何も成し得ない。それどころか最悪な事態になる。だけど、想いを背負い続けられる自信も俺にはなかった。どこかできっと、ボロが出る。隠し通せる自信がない。
この想いを何処かで発散したい。そう願い、俺は思考を巡らせた。
……思いついたことは、一つだけ。
いや、本当は考える前から、答えが見つかっていたのかもしれない。
帰宅してすぐ、俺は工房へ走った。普段は嫌々入っていた場所に、初めて自分から足を踏み入れる。曇り空から差し込んでいた光芒が直接窓に入り、埃の舞う空間を照らしていた。
下校中にずっと膨らんで、はち切れそうなほどのアイデアを上手くまとめながら、目の前の粘土を両手でこね始める。何を作るべきか、既に決まっていた。
『耕平くん、最近顔色悪いんじゃない?』
学校からの帰り道、不意に麗華は心配そうな面持ちで両手を動かした。
作品制作と隣り合わせの生活は過ぎていくのがあまりにも早くて、気づけば俺たちは中学生になっていた。けど、部活動には当然入っておらず、勉強の難易度しか変わっていない。ただ、進学と同時にブレザーを纏うようになった麗華は小学生の時よりもずっと大人に見えて、いつもドギマギしてしまう。
『大丈夫? 熱とかない?』
『いや、大丈夫。ただ寝不足なだけだから』
そう伝えて適当に流そうとしたけど、こういう時の麗華は中々引き下がらない。
『寝不足って……いつも授業中寝てるのにまだ足りないの? それに徹夜するにしても、テスト期間まだ先でしょう? 耕平くん、ギリギリまで勉強しないタイプだし』
『……麗華は俺を何だと思ってるんだ』
『居眠り常習犯。夜早く寝ちゃってメール見ないくせに授業中もぐーすか寝てる問題児』
『そりゃあ心外だな……』
どうやら、先日宿題の範囲を聞かれて返信が朝になったこと、まだ根に持っているようだった。普通に連絡に気づかなかっただけなのに、勝手に早寝扱いされてしまったのだ。
このままだと俺自身の名誉に関わる。そう思い、仕方なく真実を話すことにした。
『……別に大したことじゃないよ。作業に夢中になっちゃって、気づいたら朝になっちゃっただけ』
『へえぇ。何の作業?』
『彫像の型作り。うち彫刻一家だから設備揃ってて。構想は固まってるんだけど、形にするのが難しくて結構苦戦してる』
『え、何それ。初耳』
あまりに驚いたのか、麗華は目を見開いてその場に立ち止まった。俺もふと我に返る。まずい、少し話すぎた。
『それって、芸術家みたいに売ったりする?』
『芸術家が自分の作品売るかは知らないけど……そうだな、他の人から依頼が入って、作ったものを売ったりはしてるかな』
『ますます凄いじゃん!』
心なしか、麗華の手の動きが早くなっているように感じる。同時に、何だか嫌な予感がした。彼女が次に何を言い出すか、簡単に想像ついてしまう。
『ねえ、今から耕平くんのお家、お邪魔してもいい?』
「……は?」
そう、予想はついていた。なのに、やけにあっけなく口に出されたその言葉に思わず手話をするのも忘れて、思わず声を上げてしまった。この時、空気の読めない木枯らしが間抜けな音と一緒に、二人の間を通り過ぎていった。
『……すごい。豪邸だね』
紅葉した木々が出迎える我が家を見て、麗華は息を漏らした。あまりにも意外だったのか、門扉の前でずっと固まっていたものだから、呆れて肩を二度軽く叩いた。
『ほら、こっちだよ』
それだけ伝えて、庭園を通り、工房へと案内する。当然だが、友人を家に誘うことなんて初めてだった。少し恥ずかしかったものの、父や祖父が工房にいなかったことがせめてもの救いだったと思う。
工房の中に入ると、麗華はまた目を見開いて、その場で固まってしまった。
俺たちを真っ先に出迎えてくれたのは、立派な鯨の銅像だった。その大きな身体を翻し、こちらに腹を見せる形で下に飛び込もうとする。今にも水飛沫が飛んできそうなほど、躍動感溢れる一作だった。
『もしかして、これが耕平くんの作ってるやつ?』
『いや、これは祖父ちゃんが作った銅像だよ』
首を横に振って、俺はそう答える。
『鉄道会社から、新しくできる駅に飾りたいって依頼されたらしい。……人生最後の作品になるって、祖父ちゃん言ってた。ずっと作り続けたせいか、腰を悪くしちゃって』
『そうなんだ……残念だね。きっともっと作っていたかっただろうに』
一言一言噛みしめるように、麗華は手を動かした。そして、そのオーラをまた味わうためか、鯨の像に向き直った。余程、祖父の作品を気に入ってくれたらしい。
麗華が満足するのを待っていると、不意に彼女は振り返ってきて、少し速い速度で両手を動かす。心なしか、目が輝いているように見えた。
『この鯨さん、もしかしてわざと錆びさせてたりする? ほら、あそこ』
『ああ。よく解ったな』
そう答えて、麗華が指を差す場所に目を向けた。鯨のヒレから左半身にかけて、徐々に緑色の錆が侵食していた。それを初見でわざとだと見抜いたことに、祖父の作品でありながら嬉しく感じた。
『ああいう錆を「緑青」っていうんだけど、あえてああやって錆びさせることで逆に作品としての味を出しているんだよ。ほら、大仏とかお寺の屋根とかも、こんな色だろ? この鯨もそういう建物みたいな趣を出したいんだって、祖父ちゃんも言ってた』
『へえぇ、やっぱり。鯨さんもそう言ってたから、もしかしたらって思って』
「……は? 鯨が?」
また思わず声に出してしまう。麗華には何も聞こえないはずなのに。
だけど、表情で言わんとしたことを読み取ったのか、麗華は柔らかい笑顔で頷いた。
『ほら、耕平にも見えるでしょう? 鯨さんから靄みたいなものが出てるの。それが、工房の外に出ることを我慢しているの。まるで「まだその時じゃない」って自分に言い聞かせてるみたい』
靄……みたいなもの?
麗華が、解りやすくなるように言葉を選んでいることは伝わってくるけど、残念ながら当時の俺には理解できなかった。今まであの鯨から靄が見えたことは一度もないし、いざ目を凝らしてみても見えるはずがない。
幻覚なのではないかと、その時答えようとした。
答えようとして、俺は硬直してしまう。
目を向けた先で、麗華の目線が別の方角を向いていたのだ。
俺でもないし、ましてや鯨でもない。正確には俺の立つ背後に目を向けて、今までで一番驚いたような表情でしばらく固まっていた。
「……麗華?」
聞こえるはずもないのに、俺は口で彼女の名前を呼んだ。あまりにも異様なその姿にいつしか身震いして、目の前で手を振ってみようと一歩近づいた。
すると麗華は、突然前に向かって歩き出した。
思わず「わっ」と声を上げ、俺は仰け反ってしまった。その目の前を彼女はずんずんと進み、そのまま通過していく。何かに操られているように前進する麗華の後を、俺は恐る恐るついて行った。
やがて工房の端に行き着くと、麗華はそこに置かれた大きな物体の前で立ち止まった。くすんだ灰色のカバーに隠された、未完成の俺の作品。
その覆いを迷いなく、麗華は外した。筋肉隆々の男の立ち姿が、俺が止めるより先に露わになる。
三年かけて、ようやく構想が固まって、粘土の型を作るまで至った一作。だけど、本来麗華に見せたかったのは、それじゃない。麗華への想いがバレないためにこの作品を作ったのに、本人に見られたら意味がないじゃないか。
「れ、麗華……」
俺はたまらず、麗華の肩に触れようとした。
触れようとして、手が止まってしまった。
どうしてそうなったのか、今でもよく解らない。だけど、落胆したんだと思う。驚きと混ざり合って表面に出た、床に沈み込んでしまいそうな程の落胆。
麗華は、俺の作りかけの彫像に、今まで見たことのない表情を向けていた。
微かに紅潮させた頬。潤っていて、きらきらとした両目。窓から差し込む光が、恋に一途なヒロインとして彼女を照らしている。
一瞬にして麗華を包み込んだ、ベールの如き透明な壁。それに上手く拒まれて、俺はしばらく呆然としていた。どうにかして彼女の意識を逸らしたい。頭の中ではそう決めていたのに、何故か行動に移せない。
やがて、ハッとしたように振り向いた麗華の表情は、心臓が張り裂けてしまうほど艶めいていて、残酷なまでに美しかった。
『ごめんね……つい見惚れちゃって』
そう手話で言って、麗華は照れたように笑う。芸術に携わる立場としてこの上ない褒め言葉のはずなのに、何故か素直に喜べなかった。
『この像、すごい……耕平くんが作ったんでしょう?』
『え、言ったっけ?』
『ううん、彼が教えてくれたの。それに、あの像から溢れてくるオーラが、耕平くんそのものだったから』
興奮した様子で、それでいて心から嬉しそうに、麗華は手を動かした。
『見た目もかっこいいけど、何よりも存在感が凄いの。勇ましくて、肝が据わっていて、それでいて何か大きな悩みを抱えてる。だけど、いつかその壁を越える時を信じて、志を高く持っている。そんな感じが伝わってくるの』
『……そっか』
『こんなオーラ、見たことない。多分これから一生、見ることはないかも』
そう言って、麗華はまた銅像に目を向けて、溜息を漏らした。勿論、俺には解っていた。その褒め言葉が、自分に向けたものではないことぐらい。その蕩けた表情も今後一生俺に向けられることなんてないのだろう。
昔、麗華が誕生日だと言っていたその日。俺の初恋は思いがけない形で瓦解した。
麗華はこの彫像──『高望み』に恋をしたのだ。物体の感情を視認できる、その両目を通して。
◇
そうして今に至るまでに、いろんなことがあった。
祖父が亡くなって、叔母の病状が更に悪化して、それらの不幸を乗り越える形で俺は大成した。『高望み』がとある社長の目に留まったのだ。流石に本体は売れなかったものの、この腕を高く評価して下さり、その場で別の作品を受注された。これが俺にとって、初めての依頼となった。
これを機に注文がそれなりに増えたことに加え、叔母の体調を考慮して母の故郷に引っ越すことが決まって、父は数名の弟子と家政婦を残して家と工房を譲ってくれた。俺がちょうど二十歳になった時期のことだった。
今の俺の立場は、『高望み』が作ってくれた。それ故にコイツには感謝してる。
だけど、それとこれとは……別の話だ。
『此処にあったんだね』
浮き立ったような、安堵したような様子で、麗華は手を動かす。その表情はほんのりと赤く、恍惚としている。……俺が今、この場で見たくない表情だった。
『久しく見ないから、耕平くん壊しちゃったのかと思った。……まだ完成しないの?』
『……ああ。他の依頼で忙しいものだから、なかなか時間が取れなくてな。それに──』
沸き立つ感情を制御して、単語を頭の中で慎重に並べながら、ゆっくりと手話に変換する。
『正直に言うと今、制作に行き詰ってるんだ。コイツとは面と向かって本気で向き合いたいから、その時が来るまで一時的に止めてる』
『へえ、そうなんだ』
すると、麗華は一瞬だけ残念そうな表情を浮かべ、すぐにまた優しく微笑んだ。寂しさと期待、それらがそこに入り混じっていることを、俺は知っている。
『早く完成させてね。私、待ってるから』
そう伝えて、また『高望み』に向き直る。恋する女の子のような、潤っていてキラキラした瞳。俺に一度も向けたことのないその表情を、俺は横顔を介して虚しく見つめていた。
彼女の瞳の中に俺の姿がないことは、今も昔も変わらなかった。
二十二歳の時、麗華がプロポーズに応じてくれたのも、きっと俺のことが好きだからじゃない。あの銅像が──『高望み』があったからだと思う。
勿論、作者としてはこの上なく嬉しい。自分の作った作品が、こんなにも深く愛されているのだから。だけど麗華を愛する一人の人間として、何より彼女の夫として、その目を自分に向けてくれないことが……途轍もなく悔しかった。
この複雑な想いを「単語」にして表すには、手話に変換して彼女に伝えるには、どうすればいいんだろう。そんなこと、不器用で頭の悪い俺には、答えを出せそうにない。
俺には、気の利いた愛の言葉なんて思いつきそうにない。パッと単語が浮かぶほど純情ではないし、器用でもない。
だから……作品で伝えていくしかない。
いつか振り向いてくれるその時まで、作り続けるしかない。麗華のその特別な目で気づいてくれる、そのことを信じ続けて。
『……来年の、誕生日』
一つの覚悟を胸に刻んで、俺は麗華にそう言った。
『来年の麗華の誕生日には完成させられると思うから、その時にプレゼントしてあげるよ』
『え、いいの? ……でも、そしたら結局家に置くから特別感なくなっちゃうね』
『まあ……そうかもな』
そう答えると、麗華は子供っぽく笑った。
楽しみにしとくね──そう最後に付け加えて。
昔から変わらない複雑な心境を胸に、俺は麗華と並んで工房を後にする。過去に作った銅像も、家の銅板屋根も、ガキの頃に比べて緑青が目立っている。まるで俺たちの将来を暗示するかのようだった。
了