《半可通信 vol. 1》 ゆるふわ教養主義のすすめ

 「路上観察学」なるものが一声を風靡した時代が、かつてあった。無用の長物なのに大切に維持管理されている「トマソン」、見落としがちな街の面白い建築を観察する「建築探偵団」、珍しいマンホールのデザインの収集と考察、などなど。どれも今は一つのジャンルをなして、愛好家によって綿々と続けられているが、ひと頃のようなインパクトはすでに忘れ去られたように思う。
 路上観察学、なかでも「超芸術トマソン」の登場は衝撃的だった。建物や地面に付随する無用の長物で、なのに劣化することも取り壊されることもなく大切に維持管理されている物件に、ある種の「芸術性」を勝手に見いだすというその着眼に、姿勢に目を瞠った。さまざまな人の無意識の結果としてなぜか大切に保存される、役に立たないオブジェ、それは芸術よりもむしろ芸術らしい「超芸術」…。もちろん、これは提唱者の赤瀬川原平自身が前衛芸術家だからこそできたことではあるのだけれど、面白いのは、日常の風景のなかに見つけたちょっとした違和感に対し、持てる知識や価値観を総動員して、いわば新たな見立ての芸を作り上げてしまったことだ。「トマソン」でもっとも惹かれるのは、この部分だ。ものごとを楽しむとは、こういうこと、つまり、持てる知識や経験やその産物である価値観や物差し、それを総動員して対象に臨む、ということ。これって、まさに「教養とはなにか」という問いへの端的で象徴的な答えではないかと思うのだ。
 「教養」が軽視され蔑まれる風潮が、年々強まっているように思う。もちろん、「教養」なんていうお高く止まった語感のほうにも、多少は歩み寄る責任がある気もする。でも、教養なんてそんなに構えなきゃいけないものではないはずだ。人生を面白くする、一面的な見方を外して自由にしてくれる、そういうものはぜんぶ教養だ。その中で特定の分野を極める人はいてもいいし、それは尊敬すべきだ。でも、教養を駆使して遊び、豊かになり、より自由になり、より優しくなることは、そうではないすべての人にも開かれているはずなのだ。
 俗にハイカルチャーと、その対比としてサブカルチャーとかカウンターカルチャーという言い方をしたりするけれど、教養はそれのどちらかにどっぷり与するものではなく、その間をつなぐものだ。前述した「超芸術トマソン」はその特筆すべき達成の一つだ、と言えば、ご理解いただけるだろうか。
 長々と書いてきたが、この連載を思い立った理由は、まさにこういった教養主義を、ゆるーく実践したいと思ったからだ。あらかじめお断りしておけば、私は何かの道を極める第一人者は到底なれない。でもその代わりに、さまざまな領域をつまみ食い的に渉猟しつつ、それらを結びつけて、面白い見立てができればと思っている。何も構える必要はない、ただひたすらそぞろ歩きするうちに、何かが見えればそれでいい。そんな感じで、この連載も緩くふわっと続けて行こうと思う。ご愛読いただければ幸いである。

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