《半可通信 vol. 5》 「ただ考える」ことを何となく避けてしまうことについて
事情があって、いつも通っているフィットネスジムではなく、系列の別の店に泳ぎに行った。そこはビルの上層階にプールがあって、開放的な窓の外には、暮れなずむ街に点りつつある灯りが眼下に広がっていた。
そういえば、高いところから見下ろす人の暮らしは小さく、なぜかいとおしく思える。と同時に、それらの暮らしが小さいがゆえに、高いところから眺める私は、果てしなく残酷にもなれるような気もする。人間って…
そんなことを考えていて、不意にそんなことを長いこと考えることがなかった自分に驚き、愕然とした。いや、何も考えていないわけではない。むしろ考えごとはしょっちゅうしている。社会問題や政治経済のこと、自身の生活のこと、大好きな音楽のこと、超短編含む言語芸術のこと。ただ、これらはいずれもトピックがあり、そのなかで自分自身の立ち位置とゴールを設定して、論を組み立てられる類のものだ。音楽や言語芸術にしても、ピアノのレッスンの課題とか、次回作とか、そういう範囲ならば同じようなものだ。そうではなく、ただ連想のままに考えをめぐらし、その結論へのコミットを留保したまま、引いた位置からものごとを眺め考えること。そういう考察を、おそらくは無意識のうちに避けていただろうことに気づき、愕然としたのだった。
目的地も行程も決めぬまま考えること。効率を求められる現代社会では贅沢な余暇のように思われているかもしれないが、これは必要不可欠なものだと思う。今いる場所から動くこと、新しい視点を得ること、より自由で広い視野を得ること。日常の繰り返しの中にそれが萌芽することもあるだろうけれど、それもほとんどの場合は日常の思考に何か新たな考えが結合して起こることだろう。新しいものは、「外から来る」。それはいわば自己を一旦棚上げした、メタな視点による思考がもたらしてくれる。
だが、そうした自由で気ままな思考は同時に、案外しんどく恐ろしいもので、だから無意識に避けてしまったりするのかもしれない。自由で気ままな、自分の外から来るような連想や思索は、何か自分を構成している重要なものを思いがけず傷つけたり、壊したりするかもしれない。自分が当たり前のものとして信頼していた足元の土台が揺らぎ、崩れてしまうかもしれない。そういう意識が強いとき、人は自由な思考を自ら封印してしまうのではないか。
冒頭のエピソードにしても、この思考を突き詰めていけば、見たくない自分自身の一番醜い部分を見つめざるを得ないかもしれない。そういう危うさが、自由で気ままな思考にはある。だが、それを敢えて突き詰めることで単に自分ではなく、人間なり世界なり、そういうものの本質に迫ることもまた可能になるかもしれない。
となれば、次になすべきことははっきりしている。目的のない思考の連鎖を踏みとどまらせようとしているものは何か。これも性急に当座の結論を求めるのではなく、連想を自由に広げて、単に自分の問題の解決にとどまらないところまで歩いて行けたら、それが一番いい。それに、そのほうがずっとワクワクしそうだ。
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