《半可通信 Vol. 16》 新しい文化、新しい慣習
結局コロナから話を始めてしまうのだが、Twitterでちょっと面白い視点のコメントがあった。漫画家の蛇蔵さんだったと思うが、日本古来の「迷信的」と思われている風習の「物忌み」とか「方違え」というのは、想像するに当初は感染症予防のための知恵だったのではないか、というのだ。なるほど言われてみればその観点からの合理性はあり、水で清めるとかそういうのも同じか、などと思ってみたりはした。一方で、こうした風習は今や形骸化して合理的な意味を失っているばかりか、時として差別的・抑圧的に働くこともあるので気をつけて議論すべき、との指摘もあって、これもまたなるほどなと思う。
そして実はこうした議論から、私たちはこのコロナ禍の後に起こるであろう文明の変容、その中での新しい文化と慣習の誕生と変遷について、ある一面を予見できると思うのだ。
コロナ禍を越えた先の世界では、その体験に根ざした新しい習慣が確実に生まれるように思う。衛生管理はもちろんのこと、人との接し方、親しさの表し方、集団と個人のあり方、などなど。しかし、それは長い年月を重ねるうちに、当初の目的を離れて形骸化したり、新たな目的が当初の目的にとって代わったり、その一方で規範としての強制力は増して、私たちを抑圧したり悩ませたり、誰かを批判し差別するための道具となったりする可能性が、あるということだ。
きっとこれまでもそうだったし、今回もそれを繰り返すだろう。だが立ち止まって考えてみる。今回もそれを繰り返してしまうのは、本当に必然だろうか? 繰り返してしまわないほうがよいのであれば、そういう方法を何か探れないものだろうか?
2つほど、キーとなるものがあると思っている。1つめは、現代の社会は過去のどの時代に比べても、理性の力、と言うのが大袈裟ならば、観察した事実に基づいて論理的に考えて答えを出すという方法論が、最も充実した時代だということだ。常に合理的に結論すること、そしてそれを年月を経るなかでも繰り返し繰り返し行うことで、さまざまな文化や習慣は当初の目的に適った姿のままあり続け、あるいは目的が変更されればそれに適うかたちに姿を変えていくはずだ。
もう1つは、過去を研究する力とでも言えるだろうか。歴史研究のアプローチはこの1世紀ほどで大きな進化と発展を遂げ、単に支配者側の正史をたどるだけでなく、さまざまな文献や記録からその時代の社会全体の姿を読み解くことができるようになってきた。ある目的をもった文化や習慣が形骸化していくのは何故か、という問いに対して一定の答えを提供し、社会が同じ轍を踏まないための貴重な警告を発することが、この学問分野(といっても歴史学単独ではない学際的な研究だが)に期待できるように思う。
だが一方で、上記2つの重要なキーが機能しないという不幸な状況も、十分考えられる。1つめの「合理的思考」は、現時点でもすでに「反知性主義」という脅威に曝され、私たちは日々苦しい戦いを強いられている。論理的でないというより、そもそもの観察される事実自体を改変しようとするその思考は、論理的で建設的な議論によって簡単に説得できる類のものではない。
2つめも上記と根は同じことだろうが、これもすでに現時点において、近年の歴史修正主義の跋扈が、歴史から正しい教訓を汲み取ることを妨げている。
残念ながらすでに、事実を書き換える力の攻撃にこの世界は曝されている。かつては支配者が正史を書かせたが、今の時代は歴史を改変する勢力が事実を攻撃して権力を乗っ取り、それを正史にする。
この先に生まれてくる新しい時代の新しい文化や慣習が、合理的で、社会の豊かさにとって有効であろうとするときも、これら目の前にある敵とたたかうことになるのは間違いない。であれば、私たちがやるべきことは、単に論理的であることだけではなく、事実を、しつこくしつこく事実を争う姿勢だ。それを何度でも何度でも繰り返しそれを主張し、それに賛同してくれる輪を広げること、これが決定的に重要だ。
たとえば、3.11の後に起こったことを思い出してみるといい。コピーライターの糸井重里が、物理学者(だが核科学者ではない)早野龍五と組んで、放射能に関する事実を巧みに、政府を含む原子力推進業界に都合のいいように作り変え、塗り替えた。反原発の主張の一部には確かに極論もあったが、多くは穏当で冷静な、事実を踏まえた論調だった。しかし原子力推進派は極論をあげつらって全体をカルト扱いにして叩いた。その果てに現在の政権の原子力推進行政がある。
だから、今始めるべきなのだ。今、目の前で起こっている事実をひとつひとつ、できる範囲で見極め、それを地道に積み上げ、できるだけ広く共有していくこと。このコロナの季節を、まずはひたすらに淡々と記録していくこと。記録をやめないこと。まずは始めよう、ここから。