《半可通信 Vol. 9》 言葉が現実をつくる
今回の参院選そして選挙後、いろいろトピックがありすぎて、正直疲れている。でも疲れて投げ出したらそこで民主主義終わるかもしれないし、なんだか這いつくばって踏みとどまってるような感じだ。いかん、これって全く「ゆるふわ」「教養主義」じゃない。
とはいえ、土台が崩れかけてるときに土台より上の話ばかりできるわけもないし、そう考えればこの状態はむしろ自然なことかもしれない。
と、以上言い訳をして、ちょっと時事的な話題から始める。
知識欲が旺盛で真面目な昭和の会社員だった父親が晩年、ネトウヨになってしまったのは何故かを考察する、鈴木大介さんのコラムについてだ。
鈴木さんは、懐かしく古き良き昭和、皆が少しずつ貧しくてそれでも肩を寄せ合い、力を合わせて社会をつくってきたあの時代が失われた喪失感、そこに説明を与え隙間を埋める物語として、嫌韓嫌中を含む「ネトウヨの物語」が供給された、と分析した。これについて哲学者の千葉雅也さんは「ああいう人(ネトウヨ化してしまった人)は間違った言葉に侵されたのではない。言葉の本来のすごさがああいうケースに表れていると見るべきなのだ」と看破している。そして「それが真の文学論」であると。
なるほどそうなのだ。文学とは、目の前に存在していないものを存在させてしまうという言葉の力を最大限に発揮させることで成り立っている。だからこそ、SFであれファンタジーであれ、そこに書かれた世界は「存在している」。私は「想像しうるものはすべて存在しうる」という言い方をよくするのだけれど、それは、現前しないものもつねに可能性としては存在していて、言葉は文学的想像力によりそれを存在せしめることができる、という意味で使っている。いや、物理法則に反するものは存在しないだろう、と思う方もあろうが、書いてしまってそれが一定の説得力をもち得たならばそれはすでに「存在」と同価だと言えるのではないか。非ユークリッド幾何学が、現実の直観とはかけ離れているのに、無矛盾な体系を構築できている、みたいなイメージで捉えてもいいと思う。
言葉がこのようなものであるからこそ、たとえ一見したところ直観に反するようなことであっても、言葉によって構築された物語がその人にとっての現実となるのだ。思い出すのは、ガブリエル・ガルシア=マルケスの中短編集「エレンディラ」の文庫版あとがきに、訳者(鼓直さんだったと思う)が書かれていた話だ。南米のある村で、若い男が崖から落ちて亡くなった理由を現地の婦人が語るには、あれは精霊に誘惑されたが断ったので命を落としたのだ、という(うろ覚えなのでちょっと違うかも)。聞き手は、その話を最初は伝説のようなものと思っていたのだが、聞くうちにそれが「ほんとうの話」として、現実として理解され、村の人に共有されていることがわかったという。ガルシア=マルケスらに代表されるマジック・リアリズムの物語表現は、こうした文化的な下地の上に開花したのではないか、と、そのあとがきは考察していた。
こうした「物語の力」を文学に結実させることができれば、もちろんそれは豊饒さを社会にもたらすことができるのだけれど、一方でその力ゆえに「物語」は人を現状に閉じ込め、分断し、対立させ、場合によっては貧困や差別や暴力を温存させることもできてしまう。千葉さんの視点を借りれば、鈴木さんの論考はその象徴的な事例を鮮やかに描き出しているのだと言える。
困ったことに、人は物語を介してしか世界を受け止めることはできず、それなくしては不安定で脆い状態に置かれてしまうので、欠落感や喪失感を補完してくれる物語をいとも簡単に信じ込んでしまうのだ。そして、物語は現実と等価であるがゆえに、そこから抜け出すことは絶望的なまでに難しい。自力では無理なのはもちろん、外からの働きかけも往々にして物語への執着をかえって強める結果を招くし、無理やりその人から物語を引き剥がそうとしたら、最悪の場合その人が壊れてしまいかねない。
しかし、人は物語を必要とする生き物である以上、ひとつの物語から自由にすることができるのもまた、物語以外にはない。では、どうしたらそのような言葉を紡ぐことができるのか。残念ながらここにはまだ結論はないし、結論は存在しえないのかもしれない。それでも、それを模索しながら、言葉を紡ぎ、物語を生み続けること、それしかないのだろうと思う。
(これは永遠の問いのようなものだ。これからも問い続け、何か見つけるごとに論考していければと思う。)