《半可通信 Vol. 10》 Q: 物を書いてないとき、何してる? A: 読んでる(さまざまなものを)
タイトルが禅問答ですみません。読んでいただければ追い追いご理解いただけると信じます。
文筆家と自称するわりには、書いたり書かなかったりの波やムラがあるのは自分でも自覚がある。ただ、どうもこれ、自分にとって「書くこと」とは何なのか、というところに原因がありそうな気がしている。
文章を書く、ということは、伝える、表現する、主張する、といったことだと通常は理解される。だが自分にとってはそれは結構二次的なものであって(不必要ということではないのだが)、書くことのもっと根本的な動機は別のところにあるようなのだ。
「ようなのだ」……って、自分のことのくせに心許ないが、これにも理由がなくはない。要は、手探りなのだ。書くという行為は、何かを手探りで見つけることに、すごく似ている。これまで言語化されなかったものを、あるいはこれまでになかった言語化のやりかたで、描き出すこと。なので、あくまで最初の読者は自分自身であり、他の誰かに読まれるということは、言語というものの特質上担保されるものであって、それが第一義的な目的ではなかったりする。
そして、「物を書くこと」をこういう活動だと捉えている以上、それと等価もしくは同等な活動というものが、自分にはたくさんある。たとえばそれは「ピアノを弾く」だったりするのだ。
え……?
と思う向きもあろうから、ちょっと丁寧に説明してみようと思う。
クラシックの学徒なので、基本は楽譜を読み込んで音を鳴らす作業となる。ただ、これは単なる再現作業ではない。楽譜の再現性は完全にはほど遠い。音価や強弱が数値化されているわけでもないし、テンポも古典派以前は言葉で示されているか、あるいは全く指示がない。こういった記譜ルールにおさまり切らない、いわば行間について、作曲当時の演奏慣習、当時の楽器の特色、そして作曲者自身の記譜の特徴や音楽観、演奏観などなどを駆使して作り上げていく。それが作曲者の意思に最も叶ったものと言えるかといえば、それは誰にもわからない。ただ、現在この時点において、譜面から具体化できる最良の音楽は何か、ということを、それが演奏されるまさにこの時点、この場所において構築しなければならない。それは、ある種の深い読書体験に似て、いままで見えなかった何かをこの世界に存在させる作業だ。そして、それは第一義的に、自分自身に聴かせるために演奏される。
これはある意味孤独な営みではある。だが、自分に閉じているかというと、そうではない。音は共有できる。一定の範囲では、その享受と理解について、かなりのレベルで共通言語が通用する。裏を返せば、音は、音楽は、そういった共通の言語として、いままで見たことのない世界を垣間見させる機能を有する、とも言える。探求はひとりだけれど、その成果はひとりでなく万人のものたりえる。
それは言語芸術、そして言語そのものについても同じだ。さらに言えば、創作活動や表現活動と言われるもののすべてが、そういった構造をもっていると思う。伝えることよりも世界を読み解き、現前させることにこそ本質がある。多分、そうなのだ。
長々と綴ってきたが、これはつまり、物を書かないときには、他の何らかの方法で世界のいまだ明かされない秘密を探っているのだ……という、言い訳であります。そのように善意で捉えていただけることを切に願い、今回はこれにて幕ということで。