《半可通信 Vol. 14》 文明の転換点、かもしれない。
新型コロナウィルス感染症で、世界は大騒ぎである。このコラムでそういう内容を扱うのは相応しくないとは思うのだけれど、目下の対策や戦略といったことを少し離れて扱うなら、どうにかコラムの趣旨にかなうかもしれない。
端的な話からしよう。今回のパンデミックは、社会構造やその土台となる価値観を、根底から大きく変える契機になる可能性が高い。個人的には、そう予想している。もちろん、そうならない可能性もあるけれど、ペストの大流行がルネッサンスを胚胎したように、二つの大戦が個人の尊厳と自由を不動のものにしたように、新しい世界的な文化が創造される契機になりうるのではないかと考えている。
なぜか。いくつかの側面があるので、順番に挙げてみようと思う。
1. 対人コミュニケーションのあり方と価値観が、大きく変わるかもしれない。
潜伏期間がきわめて長く、無症状者からも感染するこのウィルスは、「自分も気づかないうちにキャリアになっているのかもしれない」という認識に基づく対人コミュニケーションを私たちに求める。今後、同様の特性をもったウィルスが新たに発生し蔓延しないという保証はない。このことによって、互いに互いの安全と安寧を気遣いながら、互いに意思を疎通しあい、感情や価値を共有するための新しい対人コミュニケーションのあり方が、かなりのスピードで生まれてくるのではないか。
それはすでに、なるべく対面の場は作らずにオンラインで連絡しあう、あるいは定時通勤・オフィス勤務のような画一的な行動は最低限にする、といったかたちで見え始めている。とはいえ人間は社会的な動物だから、互いの共感を醸成する方法を新たに見いだす必要があるが、それもほどなく発明されるだろう。また、その中で「実際に会う」ことの意味が問い直され、新たな、そして特別な価値が見出されることになるだろう。
さらに踏み込んで言えば、日本で戦後もずっと引きずり続けていた、同調圧力的な集団の維持のしかたは破綻するだろう。そうではなく、自律した個が分散しながら協働し、価値共同体を作り出す流れが大きく動き出すだろう。
2. 国家間の利害衝突や争いへの疑問や批判が優勢になるだろう。
今回の件で、人類の本当の「敵」は、隣の国などではなく、人間の事情にはお構いなしに突然襲ってくる天災であることが、多くの人にはっきりと認識されたはずだ。これは日本では、3.11のときに多くの人が気づきながら、さまざまな力が働いて十分大きな動きには結実しなかったのだが、今回は全世界に影響を及ぼす事態となったこともあり、違う展開になりそうだ。
日本では、平常時の病院経営をぎりぎりまで合理化する政策がここ数年とられ続けた結果、今回の件で医療従事者の数や病床数が決定的に不足する事態になった。その一方で軍事予算は増加の一途をたどり、完成する目処も立たない辺野古の新基地には莫大な予算が投入されている。はたして、国民とその財産を守るために必要なのはどっちか? それがこんなに明白な図式になったことは、かつてないだろう。 そして、これは日本に限ったことではない。米国や、あるいは中国やロシアでも、国家間の緊張を煽って軍事支出を増大させることが何のためなのか、多くの国民が疑問をもち、批判の声を上げることになるのではないかと予想する。
3. 結果的に、一種の世界市民主義のような感覚が広まるかもしれない。
前述の内容に関連するが、パンデミックにおいては世界の国と地域が協調して対策をしなければ、ウィルスの孵卵器のような地域が生じて、何回も感染の波が襲うことになる。世界各国ならびに地域は、いやが上でも徹底的にコミュニケーションをとりあい、共同戦線を張らなければならない。このように、自然災害や疫病など共通の敵に立ち向かうために国家や民族を超えて連携することは、一人一人の個人が直接、世界の誰かとつながっている、協働(あるいは共闘)しているという感覚を、リアルなものとして一人一人にもたらすだろう。そうした感覚が一般的になることで、蛸壺化した自国・自民族至上主義によるヘイトスピーチやヘイトクライムに対して、有効な巻き返しができるかもしれない。1.に書いたような、自律的な個人の、距離を置いたゆるやかな関係が成熟すれば、さらに大きな力となることが期待できる。
以上は希望的観測に過ぎるのかもしれない。実際、3.11のときには、多くの人が誰に促されるでもなくボランティアに乗り出し、原発の決定的な危険性を認識した多くの人が脱原発の動きを生み出したのにもかかわらず、思いもかけない力(それは策略と言って構わないと思う)によって社会は全く逆の方向へと反転させられ、地殻変動は成らなかったということがある。同じ経緯を今回もたどらないという保証はない。しかし、今回のことで多くの日本国民が、海外がどうなっているのかをまざまざと見せつけられた。そして、国を超えて意思疎通をし協調しなければならない環境のなかで、すでに新しい世界市民的な動きが胎動しつつある。もう蛸壺の日本流は、どうやっても持ちこたえられない、時代遅れの文化であることが誰の目にも明らかなのではないか。この流れを止めるも、加速させるも、われわれ一人一人にかかっている。この先にある新しい文明を見据えつつ、ウィルス禍に立ち向かう日々を過ごしていきたい。
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