上毛野氏の出自と物部氏との関係!神社と文献で紐解く古代史
古代、関東の有力豪族といえば、上毛野氏を思い浮かべる人も多いのではないでしょうか。
そして彼らは、豊城入彦命と関係してくる氏族です。
上毛野氏は、第10代崇神天皇の皇子・豊城入彦命を祖とする皇別氏族です。
毛野という古代の地名が北関東をさし、毛野のうち上毛野は「上野国」になり、現在の群馬県に相当します。
毛野地域は、渡良瀬川を境として上毛野・下毛野に分かれていますが、上下に分かれた時期には諸説あります。
「下毛野」はのちに「下野国」に転じ現在の栃木県に該当します。
「上毛野」はのちの「上野国」に転じ現在の群馬県に該当します。
私の住んでいる神奈川からは少し遠いので同じ関東といっても、土地勘が無くピンときません。
しかし、古代の北関東は東国の中心地で繁栄しました。
それは上毛野氏の存在が大きかったからだと言えるのです。
そして、もう一つ
なぜ北関東が栄えたのか、この地図を見るとよくわかります。
縄文海進によって海面は高く、海が内陸まで入り込み、その証拠に貝塚が北関東に分布しています。
埼玉県や茨城県あたりは、海が入り込んでいて現在の大宮市は半島の突端でした。
旧浦和市の3分の2が海底にありました。
埼玉県にある武蔵国一宮・氷川神社の見沼まで入江だったようで、弥生海退によって湖から変化し現在の見沼になったということです。
川越市の仙波町、海の地名が残り、その証拠に小仙波貝塚があります。
現代人の感覚からすると、まさか海だったとは!と驚嘆するでしょう。
昔の平野は住むのに適さない土地でした。
なぜなら、ダムや堤防が発達していないため、大雨で洪水が起こると家は流され住めなくなり、田や畑は壊滅します。
広い平野は河が大河となり海に流れていきます。
関東では利根川、荒川、渡良瀬川、鬼怒川、久慈川などなど、暴れ川が多いです。
そのため、比較的高台にある台地や盆地に人は住みました。
平野に人が集まりだすのは弥生時代後期から古墳時代になってからでした。
岩宿遺跡
旧石器時代の遺跡として有名な岩宿遺跡が群馬県にあります。
考古学の常識を覆す大発見を生んだ遺跡です。
群馬県みどり市にある旧石器時代の遺跡
1946年、群馬県の赤土(関東ローム層)から石器が発見されました。
これは納豆の行商をしながら独学で考古学を研究していた相沢忠洋による当時の考古学の常識を覆す大発見でした。
この発見により、縄文土器時代以前の日本列島に人類は居住していなかったとされた定説を覆し、日本にも旧石器時代が存在したことが証明されました。
さらに、1949年夏、黒耀石の石槍を発見します。
岩宿Ⅰ文化の年代は今から2.5万年以上前にさかのぼるとされています。
同じ群馬県の東南部には最大規模の前方後円墳があります。
このあたりが関東で一番発展していた地域であることが遺跡からもわかります。
太田天神山古墳
東国最大規模の太田天神山古墳は全国では28位の規模であり、畿内王者特有の長持形石棺が用いられていました。
群馬県太田市内ケ島町にある前方後円墳
別称「男体山古墳」といわれています。
長持形石棺は畿内特有の石棺で、畿内の石工の存在が明らかであり、それらからヤマトと毛野の豪族との同盟関係が想定されています。
赤城神社
赤城神社は、豊城入彦命を祭神とした群馬県の名神大社で上野国二宮です。
西日本では有名ではありませんが、関東を中心に三百以上の分社がある関東の大社です。
名前にある赤城山を御神体としています。
論社として、三夜沢赤城神社と二宮赤城神社、大洞赤城神社があります。
三夜沢赤城神社についてご紹介します。
豊城入彦命を祀る上野国二宮論社です。
群馬県前橋市三夜沢町にある名神大社論社で旧・県社です。
群馬県中部にある赤城山の南側の山腹に鎮座しています。
当社から約1.3kmに「櫃石」(ひついし)という磐座を中心とした祭祀跡があります。
豊城入彦命が上毛野国を支配する際、大己貴命を奉じたと伝わります。
豊城入彦命
豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)は、上毛野氏、下毛野氏の祖先と伝わっています。
日本書紀では豊城入彦命、豊城命、古事記では豊木入日子命と表記されます。
父親は崇神天皇、母親は遠津年魚眼眼妙媛(とおつあゆめまぐわしひめ)で、紀国造の一族である荒河戸畔(あらかとべ)の娘です。
子供は、八綱田がいます。
「日本書紀」垂仁天皇5年10月条によると、八綱田は狭穂彦王の反乱の際に将軍に任じられ、狭穂彦王の築いた稲城の攻撃を命じられます。
そして、八綱田は稲城に火をかけて焼き払い、狭穂彦王を自死に追い込みました。
孫には、彦狭島王がおり、日本書紀景行天皇55年条によると、彦狭島王は東山道十五国の都督(かみ)に任ぜられました。
そして、春日の穴咋邑で病没しています。
このとき、東国の人たちは、彦狭島王が来なかったことを悲しみ、密かに王の屍を盗み出して上野国に葬りました。
景行天皇は、御諸別王(みもろわけ)を投獄に派遣しました。
任地に赴く前に亡くなった父の彦狭島王に代わって、東国統治を命じられ善政をおこないました。
蝦夷の騒動に対しても速やかに平定したことや、子孫は東国にあることが日本書紀に記されています。
東国六腹朝臣
東国六腹朝臣(あづまのくにむつはらのあそみ)とは、毛野地域出身で出自を同じくする、6氏族の総称です。
上毛野、下毛野、大野、池田、佐味、車持の6氏族
天武天皇13年(684年)11月で、八色の姓において他の52氏とともに朝臣を授けられました。
700年、下毛野古麻呂は忍壁親王・藤原不比等・粟田真人らとともに大宝律令の編纂に関わり、のちの三戒壇の1つの下野薬師寺を氏寺として建立したとも伝えられています。
中央派遣氏族か在地豪族か
記紀には唐突に、大和政権から派遣された豪族として上毛野氏が登場します。
さらに日本書紀に武蔵国造の乱が起こったと記されています。
古墳時代後期の安閑天皇元年(534年頃)に起きたとされる笠原氏の内紛です。
武蔵国造の笠原直使主(かさはらのあたいおみ)と同族の小杵(おき)は、武蔵国造の地位を巡って長年争っていました。
小杵は性格険悪であったため、密かに上毛野君小熊(かみつけののきみおぐま)の助けを借り、使主を殺害しようとします。
小杵の謀略を知った笠原直使主は逃げ出して京に上り、朝廷に助けを求めます。
そして朝廷は使主を武蔵国造とすると定め、小杵を討伐しました。
これによって使主は4ヶ所を朝廷に屯倉として献上したと記しています。
同じ頃、九州で磐井の乱が起こっていて、関東でも同じような反乱がおきていたとも推測できます。
しかし、そもそも、武蔵国造の「武蔵」は後世に現れる表記で、乱の発生時にはまだ存在していない名称です。
これは、乱の記事が日本書紀編纂時に記されたためであるとされています。
つまり、日本書紀編纂当時の目線で描かれた脚色の可能性もあるということでしょう。
在地豪族なのか、あるいは中央から派遣された豪族かは判明しませんが、東国を繁栄させた豪族だったことは間違いないでしょう。
百済系田辺史と上毛野氏
田辺史は百済系の渡来人で、代表的人物として田辺史大隅、田辺史難波がいます。
『新撰姓氏録』の上毛野朝臣条には「豊城入彦命五世孫の多奇波世君の後」と記すとともに750年、田辺史から上毛野公と改姓したと注記されています。
多奇波世君は、仁徳天皇の時代に朝鮮に派遣されました。
つまり、日本から百済に渡り、その後日本に再度渡来してきたということのようです。
もとを辿れば日本人だということです。
朝鮮半島に駆り出された上毛野氏が外交にも参画し、定住したものが高官になって力をつけ、その後日本に再入国したと考えられます。
一之宮貫前神社
一之宮貫前神社は、フツヌシを祀る上野国一宮です。
群馬県富岡市一ノ宮にある名神大社で旧・国幣中社です。
群馬県南西部、鏑川の河岸段丘上に鎮座し、信州街道に面している神社です。
物部君(毛野氏同族)が祖神を祀ったことにはじまります。
534年頃、鷺宮(咲前神社)に物部君姓磯部氏が氏神であるフツヌシを祀ったのが創建と伝わります。
主祭神としてフツヌシを祀っていることから、物部系の氏神だと考えられます。
フツヌシは、日向の女王・アマテラスに従って活躍しました。
そして、出雲の相続争い(出雲国譲り)のときに、コトシロヌシを擁して出雲に進行し、タケミカヅチと共同でタケミナカタを破りました。
神武天皇のとき、東国を平定、後に香取神宮に祀られました。
一之宮貫前神社のほかに、群馬県前橋市の上野總社神社、大阪府の矢作神社、宮城県の塩釜神社などにフツヌシが祀られています。
そして代表的なのが香取神宮です。
藤原不比等が実権を握ると、物部氏の氏神であったタケミカヅチとフツヌシを奪い取り、春日大社の祭神にしてしまいました。
記紀にみられる春日三神(フツヌシ、タケミカヅチ、アメノコヤネ)は藤原氏が創作した神様です。
こうみていくと、上毛野氏は物部系の氏族なのかも知れませんが、文献に記載はありません。
文献に記録がないということは、逆に物部系である可能性を高めているのかもしれないですね。
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