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温泉の古代史:三大古湯を文献で紐解く

みなさん、好きな温泉はありますか?
私は、長島、蔵王、草津、山中、熱海温泉でしょうか。
最近は訪れていないので、また行きたいですね。
このサイトでは日本古代史について発信しています。


全国にある温泉の概要

温泉は、日本列島にやって来た人たちがいつ頃利用し始めたのか、考古学の観点からも分かっていません。
とはいえ、縄文時代、日本各地で利用されてきた自然の恩恵であることは推定できます。
日本列島は、プレートの境界に位置するため地殻変動が頻繁で、火山や地熱活動が盛んな地域です。
こうした火山活動によって地下水が温められ、温泉が各地に湧き出しています。
古代の人々は、これを「神の恵み」として崇め、祭祀や治癒のために活用していました。
温泉は、単に身体を清めるための場所ではなく、神聖な場所としての役割も果たしていたのです。

主な温泉地

縄文時代の温泉利用

縄文時代には、温泉が人々の生活に密接に結びついていたと考えられています。
諏訪湖畔で湯垢だらけの遺跡が発見されました。
爪形文の土器片や、局部磨製石斧などが発掘されており、それらに湯垢らしいものがこびりついていました。
諏訪湖東岸は、現在の上諏訪温泉が存在し、泉質は硫黄泉と単純温泉となっていて縄文人が温泉に入っていたとみられています。
日本全国にある古代遺跡には、温泉の近くに存在するものも少なくありません。
縄文時代の遺跡では、大湯遺跡(秋田県鹿角市)、上之段遺跡(長野県茅野市)、川頭(こうがしら)遺跡(長崎県諫早市)などがあります。
また、弥生時代では九重遺跡(島根県安来市)、釜ノ口遺跡(愛媛県松山市)など、古代人が温泉と関わって暮らしていたことが想像されています。
現代でも、「縄文の湯」を謳った温泉施設が各地にあることからも、縄文時代から温泉は利用されていたことが推測できるのです。

温泉関連の遺跡

古代日本における温泉の宗教的役割

古代の日本人にとって、温泉は「浄化」の場としても重要視されていました
温泉の湯は、神聖な力を宿すものとされ、身体と精神を清めるために利用されていました。
特に山間部や川沿いの温泉地は、古くから宗教的な祭祀の場としても機能していました。
多くの神話や伝説に温泉が登場するのも、この背景からです。
温泉は、自然の中で神々とつながる場として、古代の人々の信仰の対象でもありました。

平安時代における貴族と温泉

平安時代になると、温泉は貴族たちの間で贅沢な癒しの場として認識されるようになりました。
当時の貴族たちは、日常の喧騒やストレスから逃れ、心身のリフレッシュを図るために温泉を訪れました。
特に、京都から容易にアクセスできる白浜や有馬といった温泉地は、貴族たちの人気の場所でした。
これらの温泉地は、自然の美しさと温泉の効能を兼ね備えたリゾート地として、平安貴族の社交場としても重要な役割を果たしていました。

日本各地に広がる温泉地

日本には、古代から現代に至るまで、全国に数多くの温泉地が存在しています。
これらの温泉地の中でも特に有名なものに、草津温泉、箱根温泉、別府温泉などがあります。
・草津温泉:草津温泉は、群馬県に位置し、その歴史は非常に古いものです
日本三名泉の一つに数えられ、日本書紀や風土記にもその名が登場します。
草津温泉は、硫黄成分を豊富に含んだ「強酸性」の湯が特徴で、その効能は「万病に効く」と言われ、長らく人々に愛されてきました。
・箱根温泉:箱根温泉は、東京都心からも近く、江戸時代には「箱根七湯」として広く知られていましたが、その起源はもっと古く、古代から湯治場としての歴史があります。
火山地帯である箱根山の地熱を利用した温泉は、風光明媚な景色とともに古くから人々を魅了してきました。
・別府温泉:大分県にある別府温泉は、九州でも特に古い温泉地の一つです
その規模は日本最大級で、源泉数も多く、湧出量も世界屈指です。
別府温泉は、温泉の種類が豊富で、泥湯や砂湯、蒸し湯など、多様な楽しみ方ができることでも知られています。
伝承によれば、別府温泉もまた古代の文献にその存在が記されています。

文献にある温泉

日本書紀で温泉が初めて登場するのは舒明天皇の訪問です。
舒明天皇三年(631年)有馬温泉を行幸しています。
温泉に関する記録が残っているものには、次のようなものがあります。

■伊予国風土記

オオクニヌシとスクナヒコナが出雲の国から伊予の国へと旅していたところ、長旅の疲れからかスクナヒコナが急病になりました。
オオクニヌシは大分の鶴見山麓から湧く「速見の湯」(のちの別府温泉)を海底に管を通して道後へと導き、スクナヒコナを手のひらに載せて温泉に入れたところ、すぐに回復し喜んだスクナヒコナは石の上で踊りだしたといいます。
このシーンを参考にして、道後温泉の湯釜の正面には二人の神様が彫り込まれています。
また、その上で舞ったという石は、道後温泉本館の北側に「玉の石」として奉られています。
さらに、聖徳太子が病気療養のため、596年に現在の道後温泉である「伊豫温湯(いよのゆ)」を訪れたと記されています。

伊予国風土記逸文

■出雲国風土記

川辺に湧く「出湯」(現在の玉造温泉)が病気を治癒する「神湯」と評され、老若男女が利用していたと記されています。

■日本書紀

先ほどの有馬温泉をはじめ、7世紀前半から中頃にかけて、天皇や皇族が「伊豫温湯」や「紀温湯(きのゆ)」(現在の白浜温泉)などへ出かけたという記事がしばしば出てきます。
日本に古くからある温泉を「日本三古湯」と呼び、愛媛県の道後温泉、兵庫県の有馬温泉、和歌山県の白浜温泉が挙げられます。
文献には温泉に関する記述も多く含まれており、特に道後温泉はその代表的な存在です。

道後温泉

道後温泉は、愛媛県松山市に位置し、日本最古の温泉の一つとされています。
日本書紀や伊佐爾波神社の社伝などによると、景行・仲哀・神功皇后・舒明・斉明・天智・天武天皇など多くの皇族が行幸したとされています。
源氏物語の夕顔の巻に、伊予之介の上京を迎えて、「国の物語など申すに、湯桁は幾つと問わまほしく申せど・・・」と記されています。
郷土の伊予の国のみやげ話などを聞きながら、あの有名な伊予の湯桁は幾つあるのかと、光源氏が聞いてみたくなったという意味で、当時の貴族などの会話で一般的な形で「伊予の湯桁」が登場していたことがわかります。

玉造温泉

玉造温泉は、島根県の出雲地方に位置し、「美肌の湯」として名高い温泉です。
その名の由来は、古事記に記された神話に深く関係しています。
神話によると、スサノオがオオクニヌシに出雲の国を譲った後、玉作りの神であるクシナダヒメがこの地に住み、宝石を作る技術を持っていました。
クシナダヒメは、その美しい宝石で知られる神であり、彼女の作る宝石は人々に癒しをもたらすとされました。
この伝説が温泉の「美肌の湯」としての評価を高め、玉造温泉は特に女性たちに愛される場所となったのです。
美しい肌を保つための温泉としての効能が強調され、古代の人々はこの湯に神秘的な力を見出していました。
三種の神器の一つ、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)も櫛明玉命(くしあかるだまのみこと)によってこの地で造られたと言われています。
玉作湯神社は。その櫛明玉命を祀っており、多数の勾玉や管玉が社宝として保管されています。

白浜温泉

白浜の温泉が知られるようになったのは、飛鳥・奈良時代で、その走りが「崎の湯」です。
その頃の崎の湯は、「牟婁温湯」と呼ばれており、日本書紀や万葉集に記されています。
斉明天皇3年(657年)、孝徳天皇の皇子である有間皇子が、崎の湯に滞在し、有間皇子の薦めで、翌年には、斉明天皇が滞在しています。
そして、大宝元年(701年)には、持統天皇、文武天皇が行幸しています。
また熊野詣での訪問時に、後白河法皇など、京都の貴族たちが入浴しており、道後・有馬と並んで「日本三古湯」の一つの温泉とされています。

万葉集にある温泉

万葉集には温泉に関する歌も含まれ、特に山部赤人が詠んだ作品が知られています。
万葉集の中で特に有名な温泉に関する歌には、山部赤人の詩があります。
山部赤人 伊予の温泉に来て作った歌一首 並びに短歌
彼は、温泉の美しい景色とその癒しの効果を詠み、自然との調和を感じる喜びを表現しました。
「温泉の湯は清く、山の中に流れ、癒しの力を宿す。旅人の疲れを癒し、心を和ませる」
この歌は、温泉が持つ自然の美しさと人々への癒しの効果を示しており、温泉が人々の生活の一部であったことが感じられます。
もう一首ご紹介します。
「足柄の 土肥の河内に 出づる湯の 世にもたよらに 子ろが言はなくに」(万葉集 第14巻・相聞)
この歌は、湯河原温泉が万葉集で唯一温泉が湧き出る様子が詠まれている歌として知られています。
意味は「湯河原の温泉が夜となく昼となくこんこんと河原から湧いているが、その温泉が湧き出るような情熱で、彼女が俺のことを思ってくれているかどうか、はっきり言ってくれないので、毎日仕事が手につかないよ」という解釈があります。

万葉集

空海の温泉は高野聖が広めたもの

平安時代の偉大な僧侶、空海(弘法大師)は、仏教の教えを広めただけでなく、温泉の利用やその効能にも深い関心を持ちました。この章では、空海が温泉に与えた影響や、高野聖たちが温泉の文化をどう広めたのかについて詳しく見ていきます。

高野聖と温泉の普及

温泉の多くは、おそらく地元の猟師や木こり、修験者、山伏が発見したものが多いと考えられています。
空海の場合、本人よりも高野聖が普及に関与した可能性が考えられます。
空海の影響を受けた高野聖たちは、各地を巡りながら温泉の効能を広めていきました。
高野聖は、温泉を訪れることで得られる身体的・精神的な癒しの効果を強調し、温泉の利用を民間に普及させる活動を行いました。
また、空海は、唐への留学で仏教のみならず、土木工学、鉱物・温泉探索技術、医薬を学び帰国しました。
山岳地を巡る修験僧は、鉱物資源や土木技術を請負い寺社の造営に関わっていたとみられます。
その指導的人物が空海や役行者だったと考えられます。

まとめ

空海の温泉に対する理解とその普及活動は、温泉文化の発展に大きな影響を与えました。
温泉は、身体だけでなく心も癒す場所として、仏教の教えと結びつき、文化的な意義を持つ存在となったのです。
このように、古代から現代に至るまで温泉文化に深く根付いており、今なお多くの人々に受け継がれています。
温泉は、癒しと精神的成長を求める場として、今後も重要な役割を果たし続けることでしょう。


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