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長屋王の変!藤原氏との対決と祟りの真相

長屋王の経歴

長屋王は、天武天皇十三年(684年)、天武天皇の御子である高市皇子と、御名部皇女の長男として生まれました。
長屋王の父親である高市皇子は、母親が宗形徳善の娘・尼子娘の子という卑しい身分の出自だったため、皇位に就くことはならず、持統によって排除されていました。
天武天皇の孫であり、天智や藤原との血縁関係はありません。
しかし、703年、持統が崩御すると、長屋王が脚光を浴び始めます。
『続日本紀』によると、長屋王は、704年、正四位上という位を与えられ、その後順調に昇進し、716年、正三位となります。
720年、目の上のたんこぶ・不比等が没すると、不比等に代わり長屋王は、従二位右大臣になります。
そして、724年、首皇子が即位し聖武天皇になり、長屋王は、正二位左大臣に昇格、最高権力を得ます。
不比等がいなくなり、藤原一族にとっては絶体絶命の危機が出現してしまいました。
長屋王にとっての天敵となる藤原不比等はどんな人物なのか?

長屋王 Wikipedia

藤原不比等の経歴

689年、藤原不比等は裁判をつかさどる官人としてデビューを果たします。
藤原不比等は、持統天皇が即位すると、公に登場してきます。
持統天皇三年(689年)2月、判事に任命されたのが日本書紀の初出です。
乙巳の変で鎌足が登場したのと同じように、藤原不比等が突然登場するのです。
そして、天武天皇の心配を無下にするように大津皇子を謀反の罪で自害に追い込み、草壁皇子を即位させます。
不比等がこの謀略に関わっているかどうかは記録に残っていないため、不明です。
しかし、あの乙巳の変を起こした鎌足の血を引く不比等です、権謀術数を使ってもおかしくありません。
694年に持統天皇は藤原京に遷都、首都機能を備えた本格的な都でした。
扶桑略記には、持統天皇が藤原の私邸に宮を置いた、と書かれています。
このあと、700年、大宝律令が制定され不比等の名前が筆頭に登場します。
これで、藤原不比等の独裁政治が始まります。
東大寺献物帳には、不比等が草壁皇子から黒作懸佩刀(くろつくりのかけはきのたち)を受け取ったことが記載されています。
黒作懸佩刀は、草壁皇子→藤原不比等→文武天皇→藤原不比等→聖武天皇と渡ります。
黒作懸佩刀を三種の神器のように次代の天皇に授ける行為は、三種の神器を保持していなかった現れでしょう。
しかし、権力を掌握した不比等は天皇の外戚関係となることによってますます横暴を極めていきました。

藤原不比等 Wikipedia

日本書紀の改変

権力を持ち始めた不比等は、日本書紀編纂事業において、ある行為を行います。
それは、大神神社、石上神宮の古文書や、16氏族の墓記、系図を献上させ没収するというものです。
ここから、不比等による歴史の創作がはじまるのでした。
それが、スサノオ、ニギハヤヒを神話に閉じ込め、皇祖神・天照大神(アマテラス)を女神に変更するというものでした。
アマテラスを女神にすることで、持統女帝から子や孫への皇位継承を正当化します。
天武天皇亡き後、実権を掌握した不比等により日本書紀の編集方針が大転換したものと推測されます。
権力を掌握した藤原氏は続日本紀においても改ざんを行いました。
そのため、長屋王の変についても何らかの変更が行われた可能性があるのです。
長屋王と藤原氏のにらみ合い、長屋王の変が起こるきっかけのとなった事件がありました。

長屋王の変のきっかけとなった辛巳事件

724年2月、24歳になった首皇太子は聖武天皇として即位しました。
その2日後、天皇の母である藤原宮子を「大夫人」(おおみおや)と尊称せよという勅が発せられました。
ところが、この勅に異議を唱えたのが長屋王でした。
左大臣に就任したばかりの長屋王たちは、翌月に次のように申し出ました。
「2月4日の勅命を拝見しましたところ、藤原夫人を『天下で皆大夫人と呼べ』とのことでした。しかし、私たちが公式の規定を調べてみると、その称号は『皇太夫人』とされております。最近の勅命では『皇』という文字が省かれており、規定に照らし合わせると、勅命に反することになるのではないかと懸念しております。どのようにすべきか判断がつきかねますので、ご指示を仰ぎたいと思います」
些細なことに見えますが、長屋王には意図がありました。
それは、天皇を利用して政権を掌握しようとする藤原氏への一撃だったとみなされています。
表立っての攻撃はありませんでしたが、これが変の口火となったことはたしかなようです。
727年9月、藤原不比等の邸宅で、光明子(聖武天皇の夫人)が基皇子(もといのみこ)を出産しました。
天皇は非常に喜び、死罪以下の罪を赦し、百官に物を与え、基皇子と同日に生まれた子どもにも布や稲を贈りました。
さらに、さまざまな身分の人々にも贈り物がなされました。
1ヶ月後には基皇子の誕生を祝う盛大な宴が開かれ、生まれてすぐの皇子が皇太子に決まりました。
翌年の728年8月、天皇の警護を強化するために中衛府という組織が設立され、藤原房前がその初代大将に任命されました。
しかし、その頃から皇太子が病にかかり、天皇は様々な仏教の儀式を行って回復を祈りました。
しかし祈りの効果はなく、基皇太子は翌月薨去しました。
基皇太子の薨去とほぼ同時に、聖武天皇の夫人の一人である県犬養広刀自が安積親王を生みました。
広刀自の父は従五位下の讃岐守である県犬養唐で、彼は藤原不比等の後妻である橘三千代の親族でした。
このため、安積親王にも皇位を継ぐ権利が生まれたのでした。
このことが長屋王滅亡のはじまりとなりました。
これにより、藤原氏と天皇との外戚関係が、県犬養氏に取って代わられる可能性があったため、光明子を皇后にすることで、安積親王即位の芽を摘み取りました。

長屋王の変が発生

729年2月に長屋王の変が起こります。
『続日本紀』によると、729年2月、漆部造君足と中臣宮処連東人による、「長屋王がひそかに左道を学び、国家を傾けようとしている」という密告があったことが変の発端でした。
その夜、朝廷は使いを派遣して三関(鈴鹿関・不破関・愛発関)を固めました。

三関 Wikipedia

さっそく、式部卿の藤原宇合は、衛門佐の佐味虫麻呂・左衛士の佐の津島家道・右衛士の佐の紀佐比物などを派遣して、六衛府の兵を率いて、平城京の長屋王宅を取り囲みます。
翌日に大宰大弐の多治比県守・左大弁の石川石足・弾正の尹の大伴道足を仮の参議としました。
午前十時頃、舎人親王・新田部親王・大納言の多治比池守・中納言の藤原武智麻呂、右中弁の小野牛養・少納言の巨勢宿奈麻呂らを長屋王宅に派遣し、長屋王の尋問をはじめます。
この翌日十二日、長屋王は自尽を命じられ、その妻の吉備内親王と四人の子どもたちも自害することとなります。
十五日には、聖武天皇が詔し、長屋王は残忍で凶暴な性格であったため、悪の道に入り、凶暴な性格が謀反となって現れたのだと、糾弾します。
さらに、天皇の慈悲の心により本来は法の網目を粗くしているけど、その網目にもかかるほどだったと言われるのです。
一方で、不比等の娘・藤原長娥子とその子・安宿王らには全く咎めはありませんでした。
もちろん、これらは勝者の論理である藤原氏側の筋書きであり、長屋王は無実の罪を着せられて命を奪われた冤罪だったというのが通説です。
この戦い、藤原四兄弟(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)が、自分たち一族の権力が低下するのを恐れて行った陰謀事件とみます。
その後、藤原氏は権力を掌握しますが、無実の罪で葬り去った長屋王の祟りに怯え慄いたのは藤原氏です。
正当な処罰であれば祟りに怯えることは無いでしょう。
乙巳の変以降、藤原氏の系統は、自分たちの地位を守るため、なりふり構わず暴虐を繰り返します。
これは、古から続く、和をもって尊しとなす、という日本人の思想に反する行いであるのは確かです。
確かな証拠は今のところありませんが、藤原氏にはアジア大陸系の易姓革命思想が染み込んでいるのではないでしょうか。

祟りに怯える藤原氏

長屋王の変がおわると、藤原四兄弟は妹で聖武天皇の夫人であった光明子を皇后に立て、藤原四子政権を樹立します。
天皇と外戚関係を結んで藤原一党独裁政権を打ち立て藤原以外の氏族は徹底的に排除するという思想は、従来の日本の和をもって政治を動かすという思想とは相容れない、まったくことなるものでした。
天平の初めの頃は、悪天候が続き、たびたび天変地異が起こりました 聖武天皇は自らの不徳を嘆き、詔勅を頻繁に出すようになりました。
その後、735年に大宰府で発生した天然痘が広がり、都で猛威をふるいました。
そして、737年には4月に藤原房前、7月に麻呂と武智麻呂、8月に宇合の4兄弟が次々と病で亡くなりました。
このため、これは長屋王を自害に追い込んだ藤原への祟りではないかという噂が立ったといわれています。
しかし、この4人に近い近臣が天然痘で亡くなったという記録はなく、ほんとうに伝染病で亡くなったのかという疑問が残ります。
つまり、伝染病にかからないための特効薬があると言われて、毒を盛られたということもあり得るのではないでしょうか。
証拠がないので妄想ですけど。
その後、744年には安積親王も17歳で亡くなっています。
これも藤原仲麻呂が滅したとも言われています。
そして、平安時代にいたり、藤原の天下がやってくるのでした。
平安時代というのは、「平安な世の中」だったからつけられたのではなく、「平安を恋い焦がれた」という意味だったのかもしれませんね。


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