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【感想】NHK 歴史探偵「戦国ご当地大名シリーズ 最上義光」を視聴しました

2024年10月9日(水)22:00~22:45 歴史探偵「戦国ご当地大名シリーズ 最上義光」を視聴しました。

<NHKのあらすじ>
戦国末期を生き抜き、57万石の大大名にのしあがった山形の最上義光が登場!
最新研究で大男と判明した義光を棚橋弘至さんが熱演、鉄の指揮棒を武器に大暴れします!


■プロローグ

●スタジオで
東北地方の知られざる名将、最上義光です。
佐藤所長「何がすごかった?」
義光は小さな大名だったのに、家康の時代には57万石に育てました。
最上義光のカッコイイものとは?

■かっこいいものとは?

●山形城跡
カッコよすぎ!ご当地武将銅像ランキング1位
注目すべきは金属加工技術の礎に最上義光が関わってたのでした。

●山形市銅町
山形は鋳型に使われる良質な砂のとれる地でした。
鋳物を山形の一大産業に育て上げました。
・南康弘さん(鋳物師)
「銅町といえば鋳物の町で最上義光像を作って良かった」

■最上義光はどんな人物だったのか?

●最上義光歴史館
・最上喜男さん
義光が常日頃から城内でも持ち歩いていた指揮棒です。
「敵の血も吸ったと思います」
長さ90cm、重さは日本刀の2倍ずっしりと重い鉄製のものです。
義光の身長は6尺180cmあまりです。
豪傑最上義光、別の一面があるといいます。

●好物
・谷口末吉さん
山形県北部最上地方、最上川の支流である鮭川、一番鮭が上がる川です。
家康へのプレゼントにも鮭10匹を贈っています。

●プロレスラーの棚橋弘至さん
「おにぎりの具で好きなのは、梅、、、しゃけが一番好きです」
大名としてのスタートを紹介。

●大名としてのスタート
1570年頃、最上家の当主に、弱小勢力だったものを少しずつ支配地域を広めていきました。
最上川沿いの地域を手中におさめて行ったのです。
義光は最上川に深く関わる事業を進めていました。
・小山義雄さん
「岩を掘削して船を開通する最初のパイオニアが最上義光でした」
・三難所
三難所という船の通行を妨げる浅瀬で、これを削り一本道を作ります。
渇水期の最上川、水が少ない時期でも通行可能になります。
・松尾剛次さん(山形大学)
「交通の支配は莫大な利益を生みます。意識的にやっていたことは間違いないです」
しかし、日本海側の重要拠点である庄内地方は抑えることができませんでした。
上杉景勝の支配下にあり、迂闊に攻められませんでした。
ところが、1587年、庄内からの助けを求める知らせが届きます。
義光はあの指揮棒を持って先頭に立って戦ったといいます。
山形、出羽の大半を支配下にすることに成功したのです。

●スタジオで
佐藤所長「私も鮭の皮好きです」
最上義光の印象といえば、原田芳雄さんのイメージが強いそうです。
独眼竜政宗で最上義光役を演じました。
河合先生「研究が進み、全く違う側面、180センチの大男、第一級の歌人でした」
「連歌」:2人以上の詠み手が即興で句を詠み連ねていく遊び
「変わらじとのみ契りつる仲」(あなたをお慕いする気持ちは変わりはしないと固く誓い合った仲だ)
義光「花ゆえに馴れそめけるもえにしあれや」(花見がきっかけであなたと恋仲になったのもこ゚縁があるからなのだなあ)
河合先生「連歌の会は他の大名や文化人が集まり、ロマンチックな内面も噂で広まりアピールする場でした」
連歌と花見が好きな超大物の家来になります。
佐藤所長「秀吉ですか」
全国を手中に治める状態で秀吉に下ったほうが領国の安定につながると考えました」
思わぬ苦難が待ち受けていました。

■苦難の義光

山形城本丸跡で特別なものが発掘されました。
・齋藤仁さん(山形市)
山形城の発掘調査で出土した瓦です。
秀吉らしい特徴が「金」です。
なぜ金箔瓦を使用できたのか?
齋藤さん「なんらかの功績が認められて、用いることができたのです」
しかし、別の記録を探ると、天下人に翻弄される違う一面が見えてきます

●庄内地方
義光は上杉に再び庄内を奪い取られてしまいました。
義光は秀吉に横暴を訴えます。
ところが秀吉は、庄内のことは上杉に支配を任せることに決めたのです。
さらなる過酷な道のりが待っていました。

■駒姫の悲劇

駒姫という義光の娘は、東国一の美女と噂されるようになります。
運命を左右したのが、秀次との縁談がきっかけでした。
豊臣との関係を安定させるためにも断るわけには行きません。
山形県立博物
15歳のとき、嫁いだ直後の駒姫の姿が残されています。
写真のガラス乾板です。
嫁いだばかりなのに尼の姿をしています、いったいなぜ?
1595年、衝撃の事態が起こり、秀次が謀反の疑いで追放、切腹させられたのです。
秀次の妻子ら30名ばかりを処刑するという暴挙に出ました。
都に着いたばかりで対面もしていなかった駒姫にも向けられました。
義光の必死の訴えもむなしく処刑されました。
尼の姿の駒姫、弔うために義光が書かせたのでした。
義光の不幸が続きます。
大崎御前も急死、後を追って自害したのではないかと言われています。
松尾さん「秀吉を見限った大きなきっかけとなったと思います」

●スタジオで
佐藤所長「秀吉、暴挙ですね」
「伏見大地震ノ図」
ここに義光の姿がありません。
この時実は京都にいたのです。
河合先生「義光は徳川家康のもとを訪ね見舞ったようです」
秀吉は大地震の2年後に亡くなります。
五大老の上杉景勝が前に立ちはだかります。
最上義光24万石に対し、上杉景勝120万石
ときは1600年です。

■関ヶ原の戦い

上杉を倒すために連合軍を結成、南から家康が挟み撃ちにしようとします。
ところが、絶体絶命のピンチに陥ります。
石田三成が大軍で打倒家康の兵をあげます。
義光以外の東北の大名も引き上げ、義光軍のみで上杉軍と戦わざるを得なくなりました。
最上領に、西からは上杉軍、南からは直江兼続軍が侵攻してきたのです。
義光は、思わぬ命令を最上軍に下します。
「上杉家御年譜」明け逃げ候
なんと、義光は、ほとんどの城を放棄して逃げるよう命じました。

●最上軍はどこへ逃げたのか?
・伊藤清郎さん(山形大学)
「長谷堂城に最上軍は立てこもります」
長谷堂城は、直江兼続軍を迎撃できる場所にありました。

●長谷堂城の要塞化
①巨大な堀
幅8メートルの巨大な堀
②左上がりの坂
右利きの上杉勢に、体を大きく回転させなければならず、時間の隙ができ、その間に攻めることができます。
③11段の帯曲輪
100人以上の鉄砲団を置くことができました。

●西軍撃破
そんな中、大きく歴史が動きます。関ヶ原で徳川家康が西軍を打ち破ったのです。
しかし、義光はこの事実を知りません。
ところが、2週間上杉軍をはね返しましt。
松尾さん「秀吉憎し、家康が関ヶ原で勝てると踏んでいたそれを信じて賭けた」
ついに関ヶ原の勝利が伝わると、上杉軍が一斉に撤退し始めました。
追撃の様子が屏風絵「長谷堂合戦図屏風」が今に伝えられています。
その時でした、戦で義光が被っていた兜に、銃弾が当たります。
義光は再び立ち上がりました
勢いに乗った最上軍は庄内地方に戦いの場を移します。
そして、庄内地方を上杉から取り返すことに成功するのです。
悲劇と不条理を乗り越えながら、ついにその思いを果たしました。

●スタジオで
家康も義光を信じるしかなかった
佐藤所長「家康を信じた」
河合先生「最上が上杉を抑えてくれた、家康は感謝して最上義光を大変評価しています」
24万石→57万石を与えました。
河合先生「庄内平野を大穀倉地帯にしました、実質的には100万石に達していたくらい国を富ませました」
「1万石を越える家臣は16人も。しかし、孫の代にお家騒動で最上家はお家取り潰しになりました」

ーーーおわりーーー

次回は「古代のアイドル!はにわの秘密」10月16日(水)22時放送です。

■感想

なかなか脚光を浴びることがない最上義光が良くわかり面白かったです。
義光は「よしあき」と言うことも知らなかった・・・。
家康についたのにお家取り潰しになるなんて、思ってもいなかったでしょう。
それともお家騒動が起きることを心配して亡くなったのかな?
取り潰しを知らずに亡くなるのも、幸せだったのかもしれません。
義光の代から家督相続をめぐる争いがあったらしく、家康がうまく利用して乗っ取ったということですかね。
権力を掌握した徳川は、お家騒動が起きることを見越して、戦うこと無くうまく利用して勢力を拡大しました。
家康にとっては、伊達、最上と、敵に回したら怖い存在だったでしょう。
そして、駒姫の悲劇、義光の激怒ぶりが想像されるほどの仕打ちですね。
怒り心頭に発して秀吉から家康に寝返った心境はよくわかります。
秀吉の最終期もう少し理性が残っていたら、家康の天下は来ていなかったかも。


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