十八回 「国際映画祭の内側と外側」
◆2018年3月下旬 ヴェネツィア
「そもそも映画祭とは何なのか」
ヴェネツィアでは、毎年春に短編映画祭が、そして秋に長編の映画祭が行われる。後者の八月末~九月前半に行われる長編映画祭が(誰でも一度は聞いたことがあるはずの)いわゆるヴェネツィア国際映画祭と呼ばれるものだ。こちらは最も古い歴史のある映画祭であり、世界三大映画祭に格付けされている(ビエンナーレという芸術祭のメイン・イベントにあたる)。
僕の一年間のヴェネツィア滞在をなぜ十月スタートに設定したかといえば、この映画祭の存在があったからに他ならない。ヴェネツィアに慣れ、イタリア語もそれなりに習得するにはある程度時間がかかるはずだ。そして帰国前にこの映画祭に当事者として参加する中で、今後の自分の創作活動に何か光を見出したいという野心があった。
世界三大映画祭という格付けに、このベネツィアが入っている点は、もしかしたら現代のマーケット主義の映画祭の状況からするとそぐわない所があるのかもしれない。マーケットが大きくて「売れる為のメジャーな映画祭」は他にも多数あるからだ。(因みに東京国際映画祭は歴史も浅く、十大映画祭に入ってはいるが、注目度は低いと言わざるを得ない)そういう中で、同じ格付けを持つカンヌとベルリンに比べるとヴェネツィアは、随分長いことトレンドから外れていた。中にはもうヴェネツィアは終わったという人さえいたのだという。二00二年に随分と遅れをとってマーケットを開始したものの、規模は他の二つに比べて小さい。ただ格付けにはちゃんと意味があったのだということ、それをヴェネツィアに来て初めて知った。時代のトレンドに流されない、不動のスタンスがこの映画祭の在り方を貫いている。では何を真ん中に置いている映画祭なのだろうかー。
ヴェネツィア映画祭のグランプリ(金獅子賞)受賞の基準をみてみよう。そこには「映画史上、そして時代に新しい寄与をなしたる作品である」と書かれている。これは映画祭が始まった時から今まで、ずっと変わらない精神として受け継がれている。これはどういうことを意味しているのだろうかー。
ポイントは作品の単なる出来不出来ではなくして、その作品が映画という巨大な文化財産に新しく何を加えることが出来たか、という広い視野から判定されるということ。
何だかすごい!
文化に対しての気迫の重みの様なものがそこには感じられる。僕はこの精神を浴びるだけでもここに来たかいがあると思った。
「文化を制する国は世界から敬われる」
芸術を含んだ文化というものこそが、時代を前進させ、人々の意識を作り出していくのだということが前文と審査基準に記されている。そんな映画祭が、今の時代他のどこにあるのだろうか。そして以下はヴェネツィア映画祭を通じて世界へ躍り出た映画人のラインナップなのだが、よく見てほしい。
黒澤明と三船敏郎、
溝口健二、稲垣浩や市川昆、
手塚治虫に新藤兼人、
是枝裕和と北野武、そして宮崎駿など世界から全く注目されてなかった時分の彼らに光を当てたのは、東洋を西へとつなぐ役割を果たしてきたヴェネツィアに他ならない。これをみるだけでもこの街の文化力が世界に与える影響力を感じられるはずだ。
そして最近では、世界最大のアメリカ映画界に最も影響を与えているのがヴェネツィア映画祭だとも囁かれている。ヴェネツィア映画祭の結果が、ゴールデングローブ賞やアカデミー賞に直結していく近年の傾向をみると、これはヴェネツィアの逆襲なんじゃないかとも見えるが、実はそうではない。なぜならば前述の繰り返しになるが、そもそもヴェネツィアをはじめとするイタリアの文化に対する在り方は、ずっと不動だったのだから。ぐるっと一巡して、元の原点に世界が立ち戻っていくサイクルだとみたほうが正解だろうと思う。
この話の続きは、実際に9月の映画祭に参加してから、「その内側にあるもの」を書いてみたいと思うので、今は春の短編映画祭の話に移らせていただく。
「審査員として関わって分かったこと」
僕も国際映画祭というものにこの十五年色々と挑戦してきた。大手のプロモーターも配給や宣伝会社もついていない僕らの映画は、事前に招待されるツテもなく、一般応募で数少ない枠にかけるしかなかった。結果として十数個の映画祭に選んでもらえたのだが、時に落ち込み、時に大きく励まされながらやって来た。運よく賞をもらえた時もあるし、箸にも棒にもひっかからないことも数多くあった。そして、僕にとっての夢の舞台がヴェネツィアであるということは、十代から今まで変わることはなかった。
そんな自分が審査員としてヴェネツィアの映画祭に関われること…。短編の若手作家中心の映画祭ではあるがドキドキして嬉しくて仕方がなかった。十二月から数か月にわたり、夜な夜な選出作品を観続けていくことで、実に多様な世界の物語が、映画として発表されていることに驚いた。
そこに描かれていること。
それは実際に今世界で起きていること、もしくは引き起こされようとしていること、または過去にそうであったかもしれないことが映画に焼きついているように思えた。
幾つか印象に残った作品のラインナップから…。
◆タイトル「A(u)N」
TSプラサンナ監督 インド
若干二十一才、南インド出身のこの監督の描く世界は実に異様であり、ナチュラルな意味で人と人との原始的な根源的な出会いの物語。あらすじをいえば、野生生物の写真家と原住民が密林で偶然出会い、槍とカメラで対峙する。言葉はないが、決定的なコミュニケーションの連続。見たことのない、意味が分からないものや人と出会うこのシチュエーションは、僕らの本来の出会いとは何かを問いかけてくる。短編映画ならではの圧倒的な表現に目が釘付けになる。
◆タイトル「Mama」
Abduasim監督 ウズベキスタン
十七分の映画で、これだけのことを描けることに衝撃を受けた。大きな戦争によって国が失われ、今まで培ってきたことが吹き飛んでしまった時代のお話。僕の審査評を見返してみるとこう記してある。
『人は大きなものに、政治に、組織に、翻弄され無力だ。映画もまた大きなものに、政治に使われてきた。一本の映画が、ペンは剣より強しといえる存在になりえるのか考えた。
ただ、そんなことはさておき、母は何にも勝る。偉大な愛だ』
この監督もまた二十一才というのだから、恐ろしい。(僕はこの作品をグランプリに推薦し、同様にポーランドの監督で、今回審査員をしたマルティンも同意見となり、最終的にグランプリ受賞となった)
◆タイトル「厳しい炭鉱」
Evgenii監督 キルギス
観始めた時は、昔の日本映画をみているようだった。今までみた全ての作品に感じていることだが、いま世界は大きく変化しているということ。
その中で、いま起きている様々な矛盾、チカラや理不尽さに押しつぶされ、出口が見えない中で苦しさをおぼえる。そして夢をみるだけではなく、何かを選択せざるをえない。
しかし、何かを選択したとしても、誰と生きるか(生きたいのか)それを見いだせないと、さらなる闇と逆風に吹き飛ばされてしまうんだろうと感じた。
◆タイトル「私は言う」
グリゴリー監督 ロシア
この作品は、一番何度も観返した映画だ。
何度見ても、意味が分からない。でも惹かれる。それは短評をみても分かる。
「現実には何でも起こりうるものなのか、その境目はあやういものだとするならば、何がそうさせたんだろうか。彼自身がもう一つの可能性を選んだからなのか、母や彼女との関係性がそうさせたのか。詳細は闇の中」
他にもドミニカ共和国、セルビア、リトアニア、トルコ、南アフリカ、セネガル、チェコ、ポーランド、エストニア、ウクライナ、キルギス、ハンガリー、メキシコ、ベネズエラ、ベルギー、オランダ、香港、アメリカ、スペイン、フランス、中国など数十か国にわたる。そしていつの時代も、先進国よりも、混とんとしている国の中で、凄い作品が生まれているのだという。新たな時代を作り出していかねばならないという思いと、その逆流の中で映画や芸術というものの果たす役割はとても大きい。
以上のラインナップはほんの一部に過ぎないのだが、さてどれだけの国の映画を僕ら日本人は観たことがあるんだろうか?(※もし、これらの作品を観てみたいという人がいたら、連絡もらえたら観てもらうことも出来ると思いますのでコメント下さいね)
日本では限られた商業的に成功した作品しか公開されていない現実がある。しかも、ある一社の独り勝ちな配給状況から起きている問題は極めて深刻だ。そしてもっと問題なのは、そういう状況に僕ら一般人は気づいていないことなんだと思う。これは映画だけに限らないことで美術でも演劇でも書籍でも、売れるものしか日本には入ってこない。売れない創作活動は成立しない社会につながっていっている。これだけ情報化社会になっても、ネットや新聞、テレビでは浴びれないものを、僕はたまたま審査員として関わることが出来たから浴びることが出来た。「今、本当に世界で起きていること、起きうることについて」物語を通じてキャッチ出来た。映画というものが持つチカラ、それはその国の、いやそれだけではなく「人々の意識体のような、説明できないけれど今たしかに存在するものを交感することが出来るものなのではないか」と感じたのだ。
そして更に、過去からずっとそうであったように「映画はより自由であるべきだ」とも思わされた。だから僕も『もし、これからも映画を創っていくのであるならば、より強くなければならない。もっと揺り動かされるモノに出会わなければならない』そんなことを考えていた。その時気付いたことはやっぱり映画って凄いなということだった。そしてまたいつの日か、「映画を創りたい!」という想いだった。その湧き上がる衝動みたいなモノが自分の奥深くから起きていることも驚きだった。この一年近くずっと周りから「次回作はいつ創るの?」と聞かれても(日本で動いている映画のプロジェクトも二つあったのだが)全く他人事であるかの如く、「そんなの僕に聞かれても分からないよ」と思っていたからだった。
(九四年 「辞める、止めた、やめだ!」へ続く)