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四、 「すばらしい日々」

◆ 一九九三年、五月。


 ユニコーンが新しいシングル「すばらしい日々」をリリースした。半年前の「雪が降る町」と同じで「忙しさ」がキーワードになっていた。それは、メンバーそれぞれがソロ活動し始めたことと何か関係があるのだろうか。軽快でPOPなメロディーと、含みのある歌詞とのギャップ。東武野田線から伊勢崎線に乗り換えていく大学までの車内で、僕はウォークマンから流れてくるこの曲を繰り返し聴いていた。半年前に別れた奥田民生ファンの彼女によると、リーダー格であるドラムの川西が脱退したことが影響しているらしかった。「だから、林くんPV観れば分かるって~。メンバーがさ、棺桶埋めて最後四方に別れていくんだよ。良く観ないと分からないからちゃんと見てね」と一方的な解釈で送られてきたメールを読んでも、僕には一体何がどうしたら「すばらしい日々」に行きつくのか分からなかった。

 大学の講義は面白くなかった。全て英語で行われる内容も半分くらいしか理解出来なかったし、英検1級を取った取らないで騒いでるクラスメートとは、自然に距離を取るようになっていた。僕にとって英語はアメリカに行く為の手段でしかなかったから、今ではすっかり興味を失っていたのだ。


 気づくと講義は終わっていたようだった。ふと目の端にチラチラと映り込んでくるものを感じた。僕は読んでいた本から顔を上げ、その方を見た。

「弘樹!ミーティング行かないの?三棟の一階で三時からだよ」

手を振りながら近づいて来たのは、同じクラスの世話焼き母さんのイセ。新入生のサークル勧誘活動の最終日に、弘樹は映画サークルのACT-1に入っていたからで、イセは入学早々に入部して既に馴染んでいる様子だった。


「来週、キンちゃんの映画『ある日突然、』の追加撮影があるから、新入生のみんなは積極的に参加するように」

 部長の三年生のキヨトさんが、黒縁メガネの縁を触りながら穏やかに呼びかけた。新歓コンパには出たものの、弘樹はほとんどサークル活動に参加出来ていなかった。大学の近くに住む同期のメンバーにもどんどん置いて行かれるようで、焦りはあったが仕方がなかった。というのも三つの塾での講師と家庭教師を四人に加え、和食レストランの厨房のバイトを掛け持ちしていたからだ。高校時代にバイトで貯めた百五十万、そして夏までにとりあえずあと百万貯めたら、バイトを減らしていこうとは考えていた。でも、なかなか直ぐには辞めさせてもらえないだろう事も分かっていた。

 それでも、すべり込みセーフで映画サークルに入れたことは弘樹にとって大きな前進だったといえる。最終的に三年生のユーコさんとなっちゃんに「入りなよ弘樹!君は私の弟と同じ名前なんだしさ」と肩を押してもらって入部したカタチではあったが、素直に「映画やってみたいんです」と二人に言えたことは、自分でも驚きだった。何で言えたんだろうというか、何故今まで言えなかったんだろうかということにだ。きっかけはたぶんあれだ。少し前に起きた、ある不思議な出会いにあったんだろう。

  ことが起きたのは四月十五日。この日は新入生ガイダンスがあるだけで、生協のDUOで買い物したらすぐにやることは無くなった。キャンパスでは部活やサークルの勧誘が盛んに行われている。パンフレットを見ると、お目当ての映画系は文化会に属する「映画研究会(通称映研)」と映像企画「ACT-1」という映画サークルの2つがあった。映研の方を遠目に覗いてみると、見るからに映画好きという様なオタクっぽい人達が座って談笑していた。立て看には墨で書かれた「映研」の文字とチャップリンの映画「独裁者」のポスターが貼られていた。近づくまでもなく、これはないなと思った。一方ACT-1の方はというと、テニスサークルの様にオリジナルのウインドブレーカーを着て、映画がどうこうというより「楽しいよー、楽に単位が取れる講義を教えてあげるよ」と片っ端からナンパしているようだった。こっちもどうなんだろう、と身構えてしまい、結局その日はまた何も決めずに帰途についた。ただ、心はそわそわと落ち着かなかったから、いつもと違うルートのJRで大宮まで帰ることにしたのだ。そして東武からJRに乗り換える南越谷駅でロッテリアに寄ってみた。ファーストフード嫌いな自分がそこに寄るのは極めて珍しいことで、その時点で何か予兆でもあったのだろうか。塾のバイトの資料でも作ろうとしていたのか、今では全く思い出せない。

   コーヒーを頼んで、誰も坐っていないエリアを探して席につく。ほどなくして僕の前に一人のおじさんが座った。「周りに空いている席はたくさんあるだろうに、なぜ?」というアピールを込めて周りをきょろきょろと見まわしたのだが、おじさんはそんなことは一向に気に掛ける風もなかった。

「ねえ、君は獨協の新入生?」

「……」

「だよね、入学式だったのかな?」

と、僕の持っていた大学の紙袋を指さして語りかけてくる。

「あぁ、はい。そうですけど……」

何か胡散臭いなとは思ったが、ペースは既におじさんに握られていた。

「で、君は何をやりたいの?」

出会ってまだ一分もたっていない。なのにこの、いきなりの核心をついてくる質問に僕は動揺した。思わず手元にあった砂糖をコーヒーに全部注ぎ入れてしまい、うまくも無いコーヒーに妙な甘さが加わり、ろくでもない味になった。

「えっと、映画です……」

「はいっ?」

小さな声で答えたのだけれど、おじさんは「何を言ってるんだこの青年は」と言わんばかりに目を丸くした直後、突然大声で笑いだした。

「ガハハハハ、今なんて?」

「え、だから僕は映画をやりたいんです。一応……」

「そうかそうか、分かったよ。それにしても、面白い奴やなぁ君は」

とバシバシ僕の肩を叩いて言った。何という失礼な人だと思ったが、余りにおじさんが愉快そうに笑うので、僕はムッとしたまま押し黙るしかなかった。

「いやぁ、専門は何なの?って聞けば良かったかな。ごめんごめん、おじさんが悪かった」

と、低姿勢で謝ってくるものだから、早とちりしたことに気づいた僕は、恥ずかしさのあまり顔を赤らめた。

「とはいえ、それにしても、今からちゃんと夢を持っているなんてすごいじゃないか!」

「いえ…、まだ、そんなんじゃないです」

 夢と言えるほど自信もないし、まだ何も動いてさえなかった。本当にやる気があるのかと問われたら、その覚悟なんて全然出来ていない。

「今どきの若者は安定志向で夢がないなんて言う人もいるけど、実際は違うのかもなぁ。おじさんは昔、TVの仕事がしたくて『代理店』ってとこでプランニングの仕事をしてるんだけど。あっ分かるかな、広告代理店って」

「まあ、何となく…。でもすごそうですね」

 僕が軽く相槌を打つと、

「いやー、そんなことは無いよ。まあ雑仕事みたいなもんさ。毎日大量に刷っては直ぐに捨てられるチラシに、売り言葉をずらっと並べてさ。別にそんなものはあってもなくても売れるものは売れるし、誰かの心に届ける為のもんでもない。右から左に、ただ溜まってるものをカキ出して、隣の溝に流し込んでいく。ドブさらいみたいな雑な仕事ばかりなんだ」

「でも、誰かがそういう仕事もしなくちゃならないわけで…」

「そうだね、高度経済資本主義!理想ばかりも言ってられなくなってね」

「なんか、大人になるのも大変そうですね」

「うん、これがなかなかに大変」

 しかしこのおじさん。ネガティブなことを言う割には、随分と嬉しそうだった。

「で、君は、映画の何がやりたいんだい?」

 まただ。またキターと思った。この人には遠慮というものがないのか。

「はぁ…、いや映画の何って言われても。うーむ、映画なんですよね。僕は映画がやりたいんです。だから、本当は今頃アメリカの大学に行っているはずでした。もしくはイタリアに渡って、ある監督に弟子入りでもするつもりだったんです」

 なぜだろう。なぜかおじさんには、すらっと言えた。

「いやいや、でも何かあるだろう。映画と一口で言っても監督になりたいとか俳優やカメラマン、もしくは照明の仕事がしたいとかさ。そういうのはないの?」

 うーむ。その後もおじさんはその他映画にまつわる様々なことを説明してくれていた。でも、僕の頭の中には何も入ってこなくなっていた。

  結局のところ僕は何も知らなかったし、ろくに考えても来なかった。映画について、何も……。映画にもいろいろな役割があるとは知ってたつもりだったが、そんな初歩的なことすらも調べてなかったことに愕然とした。おじさんの言うことは至極真っ当だと思えたし、そりゃあそうだよなと、今更ながらに感じた。

「あとね、アメリカやイタリアに行かなくても、日本で今から出来ることがあるんじゃないかな。日本の映画の状況はなかなか大変そうだけどさ、何しろ君はまだ若い。そして、未来がどうなるかなんて、誰にも分からない」


   その後のことはよく覚えていない。随分と長くおじさんは話しかけてくれていたようにも思うし、ほんのひと時だったようにも思えた。

   でも、動いてみよう、とは思った。

「なんて言ったら良いのかよくは分からないんですけど、ダメでしたね僕……。ダメなのは他でもなく、自分でした」

   親の病気のせい、バブルがはじけて長く続く不況のせい、何かのせいにして来たことが、嫌だった。

   じっと僕のことを眺めていたおじさんは、少ししてから「そうか」と言った。「過ちを認めることから始まるものもあるのかもしれないよ」とも言った。

「かもしれない、じゃないです。おそらく、そこから物事は始まるんです」

確か僕は、偉そうにもそんなことを言ったはずだ。そして、「よし!」と呟いた。おじさんも頷きながら「よしっ!」と言ったのが、こちらからも分かった。
2018年「ヒロキの懐事情と竜退治」に続く)


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