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◆萩尾望都/著①『一度きりの大泉の話』~天才秀才ではなく”人として”考える
この本に記載されている出来事は天才秀才にこだわると曖昧な結論しか出て来ないが、『では人としてどうなのか』というシンプルな視点に基づくと容易に見えて来る。
要は単純に、どんなに気に食わない事を相手がしたとしても『わざと傷つける行為はダメ』ということ。
もちろん条件はある。
その相手に悪意も非もまったく無い場合だ。
「動作が鈍い・空気を読まない」
これは人間的能力によるもので一概に責められない。
本書では、竹宮氏は萩尾氏の作品がなんらかの理由で気に食わなかったらしく「何故自分より先にああいった作品を描いたのか。盗作だ」と言い切ったというが、それも事実は言いがかりの範疇であるし「あなたの作品は偽物だ」とまで放ち、その後もいくつかの嘘まで言いふらしていたという証言もある…
…これではあんまりだ。
あんまりな仕打ちを一方的に受けた萩尾氏。
きっとかけがえのない友情を竹宮氏に抱いていたのだろう。
だから身体に変調をきたすまでに悩み喘いだ…。
竹宮氏がその後の話し合いに応じない以上、
そこから抜け出す為に萩尾氏は記憶を凍結するしかなかった。
しかし凍結していたからには50年後の今においても、解凍した記憶や煩悶は当時のままの生々しい鮮度に違いない。
竹宮氏はそれを嫉妬からの言動と言うが
自身の内から湧き出る嫉妬で苦しむのと
人からの暴言や排除で苦しむのとでは全く違う。
前者には被害者は居ないが
後者には被害者が存在するのだ。
萩尾氏は言葉足らずだが
竹宮氏も違う性質の言葉足らずであろうと思う。
そしてやはり増山氏を挟まずに
二人で話し合えていたならまた結果も違っていたろうと思う。
若かったから、や
傷つく方が悪い、など
微塵も思わない。
何歳での、どういった状態のエピソードであっても、人生の大きな出来事のひとつはその後の人生に良くも悪くも大きな影響を与えるのだから
やはり人に対しては心を遣い、間違った対応をしたらすぐに謝れる自分でいたいと自戒の意味をこめて考えさせられる書籍となった。
※追記1:
萩尾氏の天才然とした無邪気さや競争心の無さに苛立つ気持ちが云々、という声もあるそうだが
個人的には『天才であるのに無邪気で競争心のない人』がとてもとても好きである。
※追記2:
映像畑の僕としては
ひとつ思うところがある
例えば僕が関わりたくない仕事で、最後の砦の誰かが「じゃあHawordさんがOKならいいよ」と言えば僕の所にはOKを求めて関係者が殺到するでしょう。
これはルール違反です。
確かに非常に迷惑です。
こういった言動は
現在進行形であるからして
若気の至りと看過する事はできない。
萩尾氏の心中いかばかりか、である。
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