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市町村保健センターは、役所の廊下が伸びたようなものでございます

1978(昭和53)年9月に、旧ソ連(現カザフスタン共和国)のアルマアタで開催されたWHO・ユニセフ合同会議で、アルマアタ宣言が採択されました。

この会議には、143か国の政府代表と67の国際機関やボランティア団体が参加しました。

アメリカとソ連との厳しい対立の中で、歴史上はじめての世界共通の保健医療の目標に到達できたのは奇跡に近いことでした。

翌年の1979年には、ソ連はアフガニスタンに侵攻します。

翌々年の1980年のモスクワオリンピックでは、アメリカをはじめとする西側諸国がボイコットしました。

1978年でなければ、アルマアタ宣言は採択できなかったでしょう。

アルマアタ宣言のスローガンは、
Hearth for All (すべての人に健康を)
でした。

2000年までに、すべての人に健康を提示し、その実現を目指すための鍵として、プライマリヘルスケアを位置づけたのです。

プライマリヘルスケアの特徴は、次のような感じです。

実用的で、科学的に有効でかつ社会的に受容できる方法や技術に基づいた必要不可欠な保健医療ケア

自立と自決の精神に則り、その発展の度合いに応じ地域社会や国が負担できる費用の範囲内で、地域の個人や家族があまねく享受できるよう、十分な住民参加のもとで実施

地域社会の主要な健康問題に取り組み、必要に応じて健康増進、予防、リハビリテーションの保健医療サービスを提供するもの


具体的には、少なくとも、次のものを含みます。

健康教育
 水供給と生活環境
 食糧供給と栄養
 母子保健と家族計画
 予防接種
 感染症対策
 簡単な病気やけがの適切な治療
 必須医薬品の供給


ざっくりいうと、プライマリヘルスケアは、大部分の国民が必要としている健康教育、環境衛生、安全な水、食料確保、家族計画、予防接種、普通の病気やけがの医療などの事業を優先して企画実施し、住民参加の下に地域の資源を生かし、自らが必要としかつ利用できる保健医療でなければならないとしたのです。

この会議には、日本からは厚生省の大谷藤郎科学技術審議官が出席しておりました。

帰国した大谷審議官は、公衆衛生局の松浦十四郎局長に報告しました。

北川定謙保健課長、篠崎英夫課長補佐らと協議をしました。

そこで策定されたのが、国民健康づくり計画です。

これまで都道府県の保健所や国保を中心にやってきた疾病予防活動を、住民に身近な自治体である市町村主体へと変え、市町村の保健機能を強化しました。

そのポイントは次の3つです。

①市町村に「健康づくり推進協議会」を設置して、自らの地域の健康課題について、自ら議論し、取組方針を協議する場をを設けたこと

②市町村の保健活動の拠点となる「保健センター」を10年間で4000カ所整備することにしたこと

③市町村に雇用されている国保保健師をすべて、市町村保健師に身分を統合したこと

これまでは都道府県の保健所の指導により、市町村における保健活動が行われていました。

それを、「住民参加型」とし、自分たちが考える保健活動に変える、というものでした。

公衆衛生活動における大きな地殻変動であり、全国の保健所では動揺が走りました。

多くの保健所長は、厚生省からはしごを外された、と激怒しました。

さらに、市町村に保健センターを設置して保健活動を行うということは、行政による医療への介入を嫌っていた日本医師会のドン武見太郎会長にとっては、とうてい許されないものでした。

武見会長は、ある会合で、出席していた松浦公衆衛生局長に対して「全国4000カ所もつくる市町村保健センターというものはどういうものか」と質問をしました。

「保健センターは、役所の廊下が伸びたようなものでございます」

松浦局長は、国民健康づくり計画の遂行に対して、武見会長が振り下ろそうとした厳しい鉄拳に対し、絶妙の言葉で答えました。

武見会長は、25年も日本医師会長を務め、歴代の厚生大臣が真っ先に挨拶に行くほどの威光を振るった存在でした。

この気転の効いた局長の一言で、武見会長は矛を収めました。役所の廊下に怒っても仕方ありません。

昭和53年から開始された国民健康づくり計画は、現在の「健康日本21」につながっています。

源流がアルマアタ宣言にあることを知っている人はほとんどいません。

厚労省にいた平成30年12月に、92歳で亡くなった松浦十四郎氏を偲ぶ会があり、私も出席しました。

このとき、出席されていた日本公衆衛生協会の多田羅浩三会長が、この話を披露されました。

青森県にいたときに、ある保健所長が、厚生省の局長が市町村保健センターは役所の廊下が伸びたようなものだと言った、と怒っておりました。

その話を聞いて、私もとんでもない局長だと思っておりましたが、局長の発言は、こうした背景があったとは全く知りませんでした。

松浦局長がまともに答えていたら、日本医師会の反対で、国民健康づくり計画は頓挫していたかもしれません。

昭和20年の夏に、世界で唯一国戦っている日本に対して、連合国からポツダム宣言が示されました。

文書にある subject to  を、
外務省は「制限のもとに置かれる」と訳し、
陸軍は「隷属する」と訳しました。

ポツダム宣言の文言をめぐって外務省と陸軍が対立し、受諾するかどうか政府内で意見が一致しませんでした。

最終的には、昭和天皇の御聖断を仰ぐこととなりました。

昭和天皇は、外務省の訳を選択しました。

これにより我が国はポツダム宣言を受け入れることに決しました。

言葉は、生き物です。

翻訳を含めて絶妙のいいまわしによって、受け取り方が変わります。

こうした歴史を知っておくと、いつか役に立つ日が来るかもしれません。

もちろん、そういう究極の場面は、来ない方がいいですが……。

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