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アルメイダは戦国時代の大分に、西洋式の病院を建てた

戦国時代に日本に、西洋式の病院を建てた医師がいます。
ポルトガル人のアルメイダです。

ポルトガルの医学校を卒業し、国王が承認した外科医の免許を持っていました。
医師でしたが、商人となって、アジアとの交易で財を成しました。

1552(天文21)年に来日しました。このとき、イエズス会のトレース神父に出会って、キリスト教への信仰を深めました。

1555(天文24)年に、二度目の来日をしました。
翌年に、イエズス会の信徒となり、全財産を寄進して修道士となりました。
日本での医療と布教に身を捧げることを決意します。

豊後国府内(現在の大分市)に住んで、戦国時代のキリシタン大名で有名な大友宗麟の援助を受けました。
1557(弘治3)年に、日本初の西洋式病院を開設しました。

臼杵城の大友宗麟の碑

「府内病院」と呼ばれ、個室16室、ハンセン病の施設と外科用の施設、医師住宅もありました。
アルメイダは外科を担当し、日本人の医師は漢方治療を行いました。

キリスト教の宣教師たちが住民たちに医療サービスを提供することは、布教・入信の有効な手段でした。
しかし1560年に「聖職者は医療にかかわらず、布教活動に専念すべし」というイエズス会の命令が発出されました。

そのためアルメイダは、病院から離れて、佐世保、島原、天草で布教活動を行うことになりました。
残された病院は、日本人教徒の組合が運営することになります。

アルメイダは、一五六七年に長崎に教会を開設しました。
一五八〇年には司教となりましたが、一五八三年に天草で亡くなっています。

一五七八年に、大友氏が耳川の合戦で島津氏に敗れました。
一五八六年に島津軍が豊後に侵攻して、我が国初の西洋式病院はここで消滅しました。

幕末に来日したオランダ人医師ポンペにより西洋式病院が長崎に作られるまでの約三〇〇年間、日本人は病院を知りませんでした。

信じられないことに、日本には入院施設がなく、外来か往診しかしなかったのです。

諸外国と比較して入院期間が長いといわれる現在の日本の状況とは真逆でした。
現在の大分市には、アルメイダの名前を冠した「大分市医師会立アルメイダ病院」があります。

大分県の国宝富貴寺の像

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