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手紙は政策につながる
ラジオで、朝5時30分から「生島ヒロシのおはよう一直線」という1時間の番組があります。
早起きして、毎朝聞いております。
様々なジャンルの人が登場して、とても勉強になります。
フォークグループ「かぐや姫」の南こうせつさんが出演したときも聴いていました。
南こうせつさんは大分県出身で、作曲した「神田川」という歌が大ヒットしました。
漫才の西川きよし師匠が、「この歌を聴くと売れなかった時代を思い出して、涙が止まらなくなる」と言っていたそうです。
きよし師匠の奥さんは、アメリカ人のヘレンさんです。
当時は、結婚したばかりで、安アパートで暮らしておりました。
当然のごとく、お風呂はついていません。
銭湯に行くと外国人のヘレンさんは、じろじろとみんなから見られるので、とても嫌だったそうです。
そこで、アパートの部屋でたらいにお湯をいれて、きよし師匠がヘレンさんの背中を流していたとのこと。
そのときに、ラジオから「神田川」が流れてきました。
洗い髪が 芯まで冷えて
小さな石鹸 カタカタ鳴った
若かったあの頃 何も怖くなかった
ただ貴方のやさしさが 怖かった
今でもテレビ局で、西川きよし師匠が南こうせつさんに会うと、直立不動になって深々とおじきをするそうです。
きよし師匠のお人柄の判るエピソードだと思いました。
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きよし師匠は、国会議員をされておりました。
参議院議員として厚生労働委員会に所属されており、介護保険法の審議では党派に属さない西川議員が賛成したことで法案がぎりぎりで成立したと言われています。
小児科医が減って小児医療が危機的な状態となっていることを最初に国会で質問をしたのは、西川きよし議員です。
ある母親から来た手紙を読み上げて、質問をされていました。
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野党の医師の国会議員が、小児医療について質問通告をしてきたので、質問取りに衆議院の議員会館に行きました。
国会質問はまだ先でしたが、勉強するために呼んだとのことでした。
初当選のこの女性議員は、大変張り切っておられました。
「小児医療がこんな危機的になっているのに、どうして厚労省はこれまで気がつかなかったの。怠慢でしょう。今まで何をしてたの?」
一方的に、まくし立てられました。
21世紀の母子保健の国民運動計画である「健やか親子21」を示して、小児医療についてこれからいろいろな対策を講じてまいりますと説明したのですが、「火に油を注ぐ」状態でした。
たまりかねて、こう言いました。
「お言葉を返すようで悪いのですが、先生の党からは、一度も小児医療について国会質問を受けたことはございません」
「そんなことはないでしょう。いっぱいしてるじゃない!」
「小児の医療費の無料化や難病の質問はいただいておりますが、小児科医不足や小児医療の危機に関するご質問はこれまで受けておりません」
「うそよ、そんなことはないでしょう。みんな言ってるわよ。小児医療が危機的だって」
「小児科医が減って小児医療が危機的だと最初に国会質問をされたのは、西川きよし先生です。それで母子保健課としても、健やか親子21の中で、小児医療を柱の一つとして検討したのです」
議員は、「絶対に違う!」と自説を曲げません。
後ろで、こうしたやりとりを聞いていた初老の議員秘書が、口を開きました。
議員、よろしいでしょうか。
口をはさむようで恐縮ですが、厚労省の補佐の言ったことは本当です。
衝撃的な発言でした。
議員と秘書から、かわるがわるに詰問される、いわゆる「サンドバッグ状態」は、何度も経験しましたが、まさか秘書から援護を受けるとは……。
私はこの世界は長いのですが、これまで党の政策の中で小児医療について言及したことは、記憶にありません。
議員は、黙りました。
政府だけが悪いのではありません。我が党も、小児医療が危機的になっていることに、気がついておりませんでした。
西川先生は無所属でありながら、それに気付いて委員会で質問をされた。
今後、そうならないように秘書として議員を支えてまいります。
お話に割り込んで、まことに申し訳ございませんでした。
まるで時代劇で、「おそれながら、殿に申し上げたき儀がございます」と言う家老職でした。
今考えると、当選したばかりの新人議員のところに、党から派遣された超ベテラン秘書だったのでしょうね。
この議員は、現在は「元衆議院議員・精神科医・作家」という肩書きでご活躍をされています。
本屋で、この元議員の本を目にしたとき、助けてくれた秘書さんのことを思い出しました。
西川きよし師匠のおかげで、窮地を脱することができました。
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西川きよし師匠は、どういうルートから小児医療が危機に瀕しているという情報をキャッチしたのかが「謎」でした。
以前に連載された日経新聞の「私の履歴書」の中で、種明かしをされていました。
議員時代には、関西の浜村淳さんのラジオ番組にレギュラー出演しており、このときに多くの人から相談の手紙が届いたそうです。
この手紙の中から「政策」となるものをとりあげて、国会議員として解決できるように関係省庁に働きかけをしたと言っておられました。
手紙は、今も昔も人を動かす重要なツールです。
手紙は、メールよりも手間暇がかかる分「熱量」があり、「魂」が込められています。
手紙の重要性を歌った、由紀さおりさんの「手紙」は、参考になります。
明日の私を 気づかうことより
あなたの未来を 見つめてほしいの
涙で綴り終えた お別れの手紙
作詞は、なかにし礼さん。
同じ作詞家の阿久悠さんは、この歌にある「気づかう」という言葉を見て、戦慄を覚えたそうです。
この言葉は、日本の歌謡曲で初めて使われたとのこと。
もしかして、昭和の歌謡界には、内閣法制局のように歌謡用語としてふさわしいかどうか、事前審査する機関があったのかしら。
それくらい、歌詞に使われる用語にこだわっています。
なかにし礼さんと阿久悠さんは、昭和歌謡史の中で、ヒットをめぐって壮絶な戦いを繰り広げました。
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阿久悠さんの父親は兵庫県警の警察官で、淡路島で勤務しました。
もともとは宮崎県川南町出身で、退官後は隣の高鍋町に家を建てて住んでいたそうです。
そのため阿久悠さんは、高鍋町で結婚式を挙げたといっています。
ただ私がみたところ、阿久悠さんの宮崎の歌は無いような気がします。
その点、「フェニックス・ハネムーン」を作詞した永六輔さんは、宮崎愛が半端ない!
現在の宮崎駅の発車メロディーになっています。
なんの話かわからなくなりました。
結論は「手紙は政策につながる」ということでしょうか。