北里柴三郎は四人の恩師に恵まれた。
明治の初めに、長崎の医学校に招かれれてやってきたのが、オランダ人医師のマンスフェルトです。
マンスフェルトは、のちに内務省の初代の衛生局長となる長与専斎と二人三脚となって医学教育を行いました。
マンスフェルトは、その後、熊本医学校に呼ばれて医学を教えることになります。
熊本医学校には、北里柴三郎がいました。
柴三郎は、坊主と医者が大嫌いで、将来は軍人か政治家を目指していました。
熊本医学校にはオランダ語が学べるということで入学しただけで、医学への興味は全くありませんでした。
マンスフェルトは、この生意気な「肥後もっこす」の才能を見抜きました。
当時の最新鋭の顕微鏡をのぞかせて、医学を教えたのです。
たちまち柴三郎は医学の面白さにハマってしまい、医師の道を歩むことを決心しました。
マンスフェルトは柴三郎に、東京の医学校に入って勉強を続け、卒業後は必ずヨーロッパで医学を学ぶように、とアドバイスしました。
柴三郎は、東京大学医学部に進み、卒業後は臨床医とはならずに、内務省の医系技官となり衛生の道に進みました。
内務省の衛生局長は、長与が勤めていました。
長与局長は、全国で蔓延するコレラを熱心に調査研究する柴三郎を見て、なんとかしてヨーロッパで勉強をさせてあげたいと思いました。
内務省の留学枠は1人で、もう決まってしまっていました。
山県有朋内務卿に相談したところ、「行かせてやれ」との返事でした。
柴三郎は、念願のヨーロッパでの医学留学を果たすことができたのです。
ドイツでは、世界的な細菌学者コッホのもとで学んで、破傷風菌の培養に世界で初めて成功するなどの成果を収めました。
留学の期限が来ましたが、コッホの推薦で延長することができました。
5年間のドイツ留学の後、日本に帰国した柴三郎は、長与局長の斡旋で、福沢諭吉の援助を受けて建設された伝染病研究所の所長に就任します。
研究所は後に内務省の所管となり、世界的な研究所に成長していきます。
柴三郎が、英国での学会に出席する際に、オランダに立ち寄りました。
医学の道を勧めた恩師マンスフェルトと、久々の再会を果たしました。
マンスフェルトは、日本からはるばるやってきた弟子との再会を大変喜びました。
「キタザトは自分の教え子だと言っても、オランダでは誰も信用してくれないんだ」と笑って言いました。
柴三郎ほど、「恩師」に恵まれた人はいないと思います。
マンスフェルト、長与専斎、コッホ、福沢諭吉の「四人の恩師」が、次々に現れて柴三郎を応援しました。
柴三郎は、世界中の研究所からオファーがありましたが、それらを断って日本に帰国しました。
しかし、日本には柴三郎が勤務するポストはありませんでした。
長与は、適塾の同僚だった福沢諭吉に相談します。
福沢は、慶應義塾の卒業生の実業家から資金を出させて、北里の勤務する研究所をつくったのです。
伝染病の研究所には、地元住民が反対しました。
長与局長と福沢諭吉は、そういった声を押しのけて、世界的細菌学者北里柴三郎のための研究所をつくったのです。
その研究所は、現在の北里大学、慶応大学医学部、東京大学医科学研究所となっています。
もし、柴三郎が軍人や政治家になっていたら、現在の北里大学、慶応大学医学部、東大医科学研究所は存在しませんでした。
最初の恩師マンスフェルトをはじめ、北里を応援した恩師たちの力は、本当に大きいものがあります。
人は師との出会いで、人生が変わるのではないかと思います。
結核菌を発見してノーベル賞を受賞したコッホは、日本の優秀な弟子に会うために、はるばるドイツから夫婦でやってきました。
北里の故郷は、熊本県の小国町で、生家と記念館があります。
今年から千円札の肖像画に採用されました。
「柴三郎」という焼酎があり、柴三郎の顔が印刷された箱も価値があります!
ここで買ったマグカップを、今は愛用しています。