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薩摩藩の名君島津斉彬は、「赤痢」で急死した
幕末の薩摩藩主の島津斉彬は、「さあこれから」というときに急死します。
その原因は赤痢だったと言われています。
一八五八(安政五)年六月に、井伊大老が、ペリーとの安政の条約の調印を了解しました。
七月に斉彬は、鹿児島天保山の調練場で兵士の訓練を開始します。
七月九日の夜に、斉彬は悪寒と下痢に襲われました。
十日には高熱が出て、十一日からは一日30~40回の下痢が出ました。
次第に悪化して重篤な状態となり、腹違いの弟久光に遺言をして、一六日の早朝六時頃に息を引き取りました。
享年五〇歳で、若すぎた死でした。
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一八六二(文久二)年、島津久光は兵を率いて上洛し、孝明天皇に拝謁しました。
その後、江戸に行って幕政改革を推し進めす。
外様大名が、兵を率いて京都の朝廷に行き、さらに幕府の人事に口を出すことは、前代未聞のことでした。
久光に押し切られた幕府は、福井藩主松平春嶽を老中に、徳川慶喜を相談役に登用します。
新しく老中になった松平春嶽は、参勤交代の制度を緩和します。
参勤交代の出費は、各藩にとっては悩みの種でした。
財政に余裕の出た各藩は、さまざまな改革を行うようになりました。
「背骨」の参勤交代制度がゆらいだ幕府は、崩壊に向けて走り出します。
神奈川の「生麦」で、意気揚々と江戸から帰る薩摩藩士たちの行列に、馬に乗ったイギリス人四人が交錯します。
ハイテンションの薩摩藩士らは、大名行列を乱すものは切り捨て御免の国法に基づいて「無礼者っ!」と刀で切り捨てました。
一行には女性もいました。
野蛮人の仕業と怒った英国人は、犯人の処罰と賠償金の支払いを求めて、鹿児島湾に東洋艦隊をさしむけて艦砲射撃を行います。
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鹿児島市街は焼け野原となり、薩摩藩の保有する軍艦も捕獲されて焼かれてしまいました。
薩摩藩は、攘夷の難しさを知りました。
しかし、薩摩藩もイギリス艦隊に砲撃し、そのうち一発が旗艦に命中して艦長が戦死し、最終目的を達することができずに引き上げました。
鹿児島出身の同級生は、薩英戦争は引き分けだと言っています。
生麦事件は全くの触発事故で、その後の事態は誰もが予想していなかった展開となりました。
薩摩藩は、イギリスに接近して軍艦や武器を購入し、倒幕に舵を切ります。
斉彬の突然の死で、久光が江戸に出動したことにより、日本は明治維新に向かって突き進みます。
歴史にifはありませんが、斉彬が生きていたらどうなったでしょうか。
「赤痢が歴史を変えた」と言ってもいいかもしれません。
トップの病気は、今も昔も最大の政変です。
ちなみに文久三年は一八六三年。
私が生まれたのが一九六三年。
わずか百年前の出来事です。
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