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我が国に私立病院が多いのは、西南戦争が原因である
宮崎県は、明治10年に起こった西南戦争の最大の「被害者」です。
ほぼ県内全域が西郷軍と政府軍の戦争に巻き込まれ、多くの遺跡が残っています。
ただ当時は、宮崎県は存在せず、鹿児島県に併合されていました。
明治政府が、明治10年2月から9月までおよそ7か月間続いた戦争を鎮圧するために使った戦費は、約4200万円でした。
当時の日本全体の税収が約4800万円でしたので、実に国会予算の約9割が使われたことになります。
このときのつけは、その後の日本の財政に大きくのしかかりました。
明治政府は、明治2年に西洋医学を採用することを決定しました。
しかし、西洋医学を学んだ医師が地域にはいませんでした。
そのため、医療政策を担当する各府県は、医師を養成するための医学校を開設しました。
医学校には臨床研修用の「病院」を併設しました。
明治政府は、各府県の地方税での収入を、こうした医学校を運営するための費用として支弁することを認めていました。
しかし、西南戦争後の財政逼迫で、府県立医学校を全面的に廃止する方針をとったのです。
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明治20年9月に、勅令第48号が通達されました。
府県立医学校ノ費用ハ明治21年度以降地方税ヲ以テ支弁スルコトヲ得ス
この勅令によって明治21年度以降は、公費による医学校の運営は事実上不可能となります。
府県立医学校と併設された府県立病院の多くは、廃止または民間に払い下げとなったのです。
明治19年に23校あった公立医学校は、21年には激減して3校になりました。
生き残ったのは、梅毒の検診による収入など自主財源のあったところだけでした。
日本政府は、公立ではなく私立病院を主体にして医療体制の整備を行うという、世界でも稀な医療政策を採用したのです。
新型コロナウイルス感染症が蔓延した際に、医療体制の逼迫が問題となりました。
我が国の病院の8割が私立であるのに対して、欧州ではほとんどが公的な病院であることが指摘されました。
欧州の病院は、歴史的に教会か地方自治体が運営主体です。
ざっくりいえば、教会はカトリックの国、地方自治体はプロテスタントの国です。
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病院の運営を公費で支弁することを禁止した勅令を出したときの大蔵大臣は、薩摩出身の松方正義です。
西南戦争後のインフレを収束させるために緊縮財政を組み、「松方デフレ」と言われる不況となって住民が苦しんだと高校の日本史で習いました。
西南戦争によって、日本の医療体制が変わりました。
日本に民間病院が多い根本的な原因は、西南戦争だということは、病院関係者にはほとんど知られていません。
同様に、西南戦争後の戦後復旧のために、明治16年5月9日に宮崎県が鹿児島県から独立したということもあまり知られていません。
宮崎県を独立させた最大の功労者「川越進翁」の胸像が県庁の庭にあります。
毎年、知事を始め県庁幹部、県会議員、川越進翁の御子孫が集まって、翁の胸像に献花をします。
同年同日に石川県から独立した富山県の県議会議事堂には、富山県独立の功労者の米澤紋三郎の胸像があります。
歴史を勉強すると、未来にきちんと対峙できる力がつきます。
歴史は、History。誰かが作った物語 his story です。
歴史は面白くて、ためになります。
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