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カルパチアと秋田の鉱山では、男が若死するために、一生の間に夫を7人持つ夫人がいた

ルネサンス時代に、アグリコラという医師で鉱山学者がいました。

現在のドイツに生まれ、ライプチヒ大学を出て、イタリアのハドヴァ大学などで医学を学びました。

鉱山に興味を持ち、当時の鉱山都市であるヨハヒムスタールに医官として赴任しました。
1531年にザクセンの鉱山の町ケムニッツに赴任して、鉱山の研究を続けました。

1546年には、領主からケムニッツの市長に任命されています。

1550年に「デ・メ・メタリカ(金属の書)」が出版されています。

その前年に、アグリコラは脳卒中で亡くなっており、自分の本の出版を、この目で見ることはありませんでした。

アグリコラの本には、探鉱、採鉱、鉱石の運搬、構内の換気や排水のポンプ装置、冶金の技術、構内で働く鉱夫の組織、給料、安全、健康管理が触れられています。

肺癆(じん肺)の記述もあります。

作業中に生じ、空中に飛散する塵が気管および肺臓に達して、呼吸困難を発生させる。

この病気が破壊力を得てくると肺臓は化膿し、体内に肺癆を発生させる。

カルパチアの鉱山にはこのようなおそろしい肺癆に残らず次つぎと倒れた夫を7人持ったという婦人たちがいる。

江戸時代に菅江真澄という国学者がいました。
日本中を旅して、その旅行記録が残っています。

菅江は、医師でも鉱山技師でもありませんが、アグリコラと同様に鉱山に大変興味があり、いろんな地方の鉱山に立ち寄って、その記録を残しています。

1803(享和3)年に、秋田の大葛(おおくず)金山に行ったときは、烟毒の悲惨なありさまを書き残しています。

かなほりの工となる身は、烟てふ病して歳みじかく、四十と世にふるものはまれなり。
誰れも女は若くして男にをくれ、身の老ぬるまでは、七たり、八たりの夫をもたるが多しと、声のみて語りけるに、なみたおちたり。


(大葛金山の鉱夫は、じん肺で寿命が短く、40歳になることはめったにない。男が若死にするため女性は一生の間に7人、8人の夫を持つことが多いと聞いて、涙が落ちてしまった。)

ヨーロッパと日本に同様の記録が残されていることに驚かされます。

高千穂の土呂久鉱山は、もともとは銀山でした。

江戸時代に豊後の商人が二人、日向にやって来て行商をしておりました。

山道を歩いて疲れたので休憩していたら、暖かい日差しで二人とも眠ってしまいました。
しばらくして二人とも目を覚まします。

一人が話を始めました。

今、変な夢を見た。
山の神が出てきて、ついて来いと言われたので山の中について行ったら「ここを見よ」と言われた。

蜂が飛んできて、土の中に潜って銀の粉をくわえて出て行った。

周りにも銀の粉のついた蜂がいた。
蜂を捕まえようとしたら目がさめてしまった。


その話を聞いたもうひとりの商人は、夢を見た商人に、その夢を売ってくれと頼みました。

夢を買うとはおかしな話だと、とりあいませんでしたが、しつこく頼むので夢を売ることにしました。

その夢に出てきた場所に案内してくれと頼まれ、連れて行った場所が土呂久でした。

私の故郷の椎葉にも鉱山がありました。
財木(たからぎ)銅山という名前です。

労働省に勤務していたときに、栃木県にある珪肺労災病院に出張したことがあります。

今は、獨協医科大学日光医療センターになっています。

この病院の院長先生はじん肺の専門家で、労働省じん肺審議会の会長をされていました。

会長に名刺を渡して、宮崎県の椎葉村出身ですと伝えました。

「昔、椎葉村の財木という鉱山に勤めていた患者を診たことがある」と会長は、語りはじめました。

椎葉の山奥の銅山で働いていた鉱夫がじん肺となって、栃木県の病院までたどり着いたのかと思うと、涙が落ちる思いでした。

私が中学生の頃に、因幡晃さんというシンガーソングライターがデビューしました。

サングラスをかけており、秋田出身の元鉱山技師という極めて珍しい経歴もあって、強烈な印象を受けました。

今でも、鉱山と聞けば、因幡晃さんを思い出します。

「わかって下さい」は名曲です。

一生の間に7人も夫を変えなければならない鉱夫の妻の歌のように思えて、涙がぽたりぽたりと落ちてきます。

恐縮です。個人の感想ですので。

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