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日向細島「黒田の家臣」の碑は、薩摩藩の黒歴史である

島津久光が上洛した1862(文久2)年に、全国から尊皇の志士たちが京都に結集します。
志士たちは、幕府を倒して天皇親政の政権の樹立を夢見ていました。
兵を率いて上洛した久光が、それを実現するかもしれないという期待を抱いて、京都へと駆けつけたのです。
ところが、久光は幕府を倒すことなど考えておらず、幕政改革を行おうとしていただけでした。

薩摩藩内にも、尊皇派の藩士グループがおり、他藩の尊皇派と連絡をとっていました。
尊皇派の薩摩藩士らは、京都伏見の寺田屋に集まって、幕府の出先機関である京都所司代を襲撃する計画の相談をしました。

こうした尊皇派の若者の動きを、薩摩藩の幹部が察知しました。
一部の藩士に不穏の動きがある、と久光に報告しました。
久光は、「暴発は許さん、わしの言うことを聞かない藩士は鎮圧せよ」と命じます。
剣の達人が集められ、尊皇派のいる寺田屋に直接乗り込んで、説得を行いました。
ところが、「全国の尊皇派志士とも連絡しており、いまさら後には引けない」と応じませんでした。
「尊皇の想いは、たとえ藩主命令であっても聞くことはできぬ」と決裂したのです。

寺田屋の中で、突然の薩摩藩士同士の斬り合いとなりました。
これが世に言う「寺田屋事件」で、薩摩藩士九人が命を落としました。
寺田屋に集まった尊皇派の薩摩藩士たちは、鹿児島に戻され処罰を受けることになりました。
寺田屋には、他藩の尊皇の志士も集まっていましたが、それぞれの藩に引き渡されます。
藩への引き取わたしを拒否した五人は、鹿児島に薩摩藩士と一緒に護送されることになりました。
この中には、明治天皇の幼少期の教育係だった田中河内介とその息子がいました。
他は、海賀宮門、千葉郁太郎、中村主計です。 

船は二隻用意されました。
行き先は、日向の細島です。
一番船には、田中親子、二番船には、海賀、千葉、中村が乗り、薩摩藩士も二手に分かれて乗りました。
その後の運命は悲惨です。

一番船では、夜中の小豆島沖で、田中親子は、薩摩藩士に斬り殺されます。
縄で後ろ手を縛られた状態で夜の海に投げ込まれました。田中親子の死体は、小豆島に漂着します。

二番船では、三人は日向の細島に着いてから薩摩藩士たちに惨殺されました。
いわゆる「めった刺し」です。
薩摩藩士たちは、そのまま細島から陸路、鹿児島まで最速のスピードで移動しています。

細島で惨殺された3人の墓石

細島で、朝、散歩していた黒木庄八翁が、三人の死体を発見しました。
富高代官所の役人が、三人の死体を検死したところ、一人の死体に、黒田家家臣海賀宮門という名前が書かれた腹巻きが見つかりました。
そこには「赤心報国只四字」と書き込みがありました。「尊皇の想い、ただそれだけ」という意味です。
誰が三人を殺害したのかという捜査は、薩摩藩士たちはすでに薩摩藩領に到着していることから、打ち切りになっています。

この事件は、薩摩藩でも黒歴史になっていて、五人の殺害を誰が命じたのかは不明のままです。
小豆島に死体が漂着した田中河内介は、その後幽霊となって、自分を殺害した薩摩藩士につきまとい、狂死させたと言われています。
一方、細島では黒木翁が手厚く葬って墓をずっと管理していたので、幽霊は出ていません。

墓のある場所は、いつしか「黒田の家臣」という名前がつきました。
検死の記録は、明治維新のときに富高代官所を占領した薩摩藩士によって処分されました。
証拠隠滅を図ったのですが、検死報告書の写しが近くの寺に残っていました。
明治天皇が、自分が四歳まで教育係だった田中河内介は、今はどうしているのかと懐かしそうに尋ねました。
その場にいた大久保利通以下薩摩藩士らは、下を向いて口をつぐんでいました。

細島の殺害現場の島には、「赤心報国」と書かれた碑が建てられています。
長州藩の「山県有朋」の書です。
なぜに長州が出てくるのか、意外な感じがします。
実は、京都の長州藩邸にいた長州藩士たちも、京都所司代襲撃に合わせて、立ち上がる計画があったのです。
山県有朋も同志の一人でした。

田中河内介の幽霊は、ネットで検索してみたら半端ないです。
明治11年3月14日に東京の紀尾井坂で、馬車で登庁中の大久保利通が石川県士族ら六人にめった刺しで殺害された事件は、田中河内介の恨みとも言われています。

黒田の家臣の近くには、クルスの海があります。さながら十字架のようです。
明治維新の前の薩摩藩にとっては触れられたくない黒歴史が、ここ細島にあります。
死体の第一発見者の黒木翁は、墓をつくり、毎日のように花を手向けました。
黒木翁がいなかったら、歴史は風化していたかもしれません。

山県有朋の書の赤心報国之碑


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