ルーズベルトは、死してからもなお公衆衛生の世界に影響を残す偉大な大統領である
アメリカでは、トランプ大統領が就任しました。
トランプ大統領は、WHOからの離脱を打ち出すなど、世界の公衆衛生上の脅威となっています。
今日1月30日は、アメリカ大統領4選を果たして12年間大統領を務めたフランクリン・ルーズベルトの誕生日です。
1882年1月30日に生まれたルーズベルトは、1945年4月12日に、現職の大統領のまま、還暦プラス3の若さで亡くなっています。
晩年は、血圧が300/190もあったと言われています。
当時は、こうした高血圧が、体内にどういう影響を与えるのかは判っていませんでした。
ルーズベルトの死因を解明するために、フラミンガムという人口5千人の田舎町に住む住民の健康状態を調べるコホート研究(フラミンガム・スタディ)が開始されました。
この疫学研究の結果、高血圧、高脂血症、喫煙習慣の3つが、心血管疾患のリスクを上げることが判ったのです。
死してからもなお医学・公衆衛生の世界に影響を残している偉大な大統領です。
フランクリン・ルーズベルトは、ニューヨーク州の富豪の家に生まれて、ハーバード大学を卒業して弁護士となり、ニューヨーク州の上院議員を経て、海軍省の事務次官に抜擢されました。
妻のエレノアは、日露戦争のときに仲介役をしたセオドア・ルーズベルト大統領の姪です。
海軍省の事務次官としての勤務は、第一次世界大戦をはさんで7年間という長期におよびました。
38歳のときに、民主党から副大統領候補として指名されました。
大統領選挙では、共和党に敗れて、民間の弁護士となりました。すぐに保険会社の重役になっています。
本当に、絵を描いたような超ピカピカのエリート人生を歩んできました。
夏休みを別荘で優雅にすごしていたときに、ポリオに感染しました。
治療にあたった医師からは、「腰から下は死んだ人間になる」と宣告されました。
ルーズベルトは、神から見放されてしまったと感じました。
しかし、妻のエレノアや腹心の友人は、「いつか必ず政界に復帰するという目標を持つことが、病からの回復につながる!」と応援をしました。
こうした声を受けて、ルーズベルトは、リハビリに効果があると言われていた温泉のあるジョージア州のウォームスプリングスにリハビリセンターを建てました。
リハビリセンターの建設のために、亡くなった父の莫大な遺産をつぎ込みました。
いわば「背水の陣」を敷き、リハビリに専念することにしたのです。
この南部の貧しい農村での長い闘病生活は、後に役に立つことになりました。
ルーズベルトは、黒人労働者と初めて口を交わしました。
その結果、黒人たちがいかに貧しい生活をしているのかを知りました。
人種問題をはじめ、過疎地の貧困についても理解を深めるようになりました。
他のポリオの患者との出会いも、新鮮でした。
病に打ち勝とうと懸命に努力している「仲間」を得て、大いに励まされました。
ルーズベルトはそれまでは、金持ちで傲慢、鼻持ちならない存在でした。
長い闘病生活で、人間の苦悩がどのようなものであるかを学び、憐れみの情を知ったのです。
歩くことができなくなったことにより、ひとりで静かに思いをめぐらせたり、他の人の話をじっくりと聞くようになりました。
岸田総理のいう「聞く力」が湧いてきたのです。
脚でバランスをとることはできなくなりましたが、心でバランスをとることを学びました。
これにより、あらゆる恐怖を克服できると確信するようになり、楽観主義に貫かれた人物に成長していきます。
ルーズベルトは、民主党からニューヨーク州知事選挙に立候補しました。
「身体が不自由で州知事が務まるのか?」という質問に対しては、「自分は身体を素早く動かすことができないので、共和党員のように責任のがれをしたり、批判をかわすことができないのだ」とジョークで答えました。
こうして見事に当選を果たしたのです。
その後の大統領選挙の指名受諾演説では、「ニューディール(新規まき直し)」という言葉を初めて使いました。
その中で、「アメリカを取り戻す」とか「より公平な分配」といったキーワードを使いました。
どこかの国でも同じような言葉を聞いたことがありますが、たぶん気のせいでしょう。
1911(明治44)年3月に、ニューヨーク州の裁縫工場で火災が発生しました。
146人が亡くなるという大惨事になりました。
犠牲者の大半は、裁縫工場で働いていたイタリア系やユダヤ系移民の少女でした。
少女たちの逃亡を防ぐために、日頃から工場の建物の階段や出入り口のドアは封鎖されていたのです。
そのために、火災が起きたときに避難することができずに、多くの少女たちが焼死したのです。
この火災の後に、ニューヨーク州では、他の州に先駆けて、労働時間の短縮や児童労働の廃止を含めた労働法や労働災害法、職場の安全衛生に関する法令が整備されました。
これらの一連の州法を成立させるために、ニューヨーク州議会でロビー活動を行ったのが、フランシス・パーキンズという女性でした。
パーキンズは、裁縫工場の火災で多くの少女たちが亡くなってしまったのを目にして、労働問題に目覚めたのです。
この間に、ニューヨーク州の州議会議員だったルーズベルトの妻のエレノアとも知り合いになりました。
ポリオによる長期療養から政治活動を復活させたルーズベルトが、ニューヨーク州知事に当選したときに、パーキンズを州の労働局長に任命しました。
エレノアが、パーキンズを推薦したと言われています。
ニューヨーク州知事に就任して10か月たった1929年10月24日に、ニューヨークの株式市場で株価が大暴落しました。
いわゆる「大恐慌」の始まりです。
ルーズベルト知事は、州レベルで緊急的な救済対策や公共事業を行い、失業者に雇用の場を提供する施策を実行しました。
パーキンズを英国に派遣させて、失業保険の調査をさせました。
ルーズベルトは、1932年の大統領選挙で「アメリカを取り戻す」と宣言して、勝利をしました。
労働長官には、ニューヨーク州の局長のパーキンズを指名しました。
アメリカ史上初の女性閣僚の誕生です。
パーキンズは、ニューディール政策の目玉となる、失業保険と老齢年金を二つの柱とする社会保障法と労働時間を1日8時間とする公正労働基準法などを成立させました。
パーキンズがニューヨーク州議会でロビー活動をしていたときには、ルーズベルトは州議会の議員で、労働問題にはほとんど興味を持っていませんでした。
パーキンズは、この頃のルーズベルト議員のことを回想しています。
「金つるの眼鏡を鼻にかけ、頭を後ろにそらせて、人を見下したような視線を向ける、居丈高な坊やだった。将来、彼が大統領になるとは誰も夢想だにしていなかった」
ポリオに感染しなかったら、ルーズベルトは「ゴーマンなお坊ちゃま君」のままで、大統領になることはなかったでしょう。
もちろん、パーキンズも米国史上初の女性閣僚になることもなかったでしょうが。
病は人生を変えます。
日本で初めての女性の大臣は、1960年の中山マサ厚生大臣です。
自民党の池田勇人内閣のときのことでした。
実は、池田首相の経歴を見ると、ルーズベルト大統領と似ているのです。
池田勇人首相は、京都帝国大学を卒業して、大蔵省に入省します。
1929年に、税務署長をしていたときに、難病の天疱瘡にかかって療養のために休職しました。
休職期間が切れたので、1931年に大蔵省を退職となりました。
以後、広島県の実家で長い療養生活を送ることになります。
看病の疲れから、奥さんが亡くなりました。
その後、遠縁の女性が看病をすることになり、その女性と結婚をしました。
闘病中には、四国の巡礼も行いました。
1934年に、天疱瘡は奇跡的に完治しました。
医師は、なぜ治癒したかわからんと言いました。
病気から回復したので、新たに会社勤めをすることになり、挨拶をするために、これまでお世話になった大蔵省に行きました。
秘書課長からは、復帰を勧められたのです。
青天の霹靂でした。
こうして、大蔵省で新規採用となり、退職からまさかの復活を遂げました。
その後、税の専門家となり、主税局長にまで上り詰めました。
普通ならここで役人人生が終わるはずでした。
終戦後にGHQが、日本の税の制度について聞きたいので、大蔵省から話をしてくれと依頼がありました。
池田主税局長は、GHQに日本の税制度についてレクチャーをします。
大変わかりやすいとGHQに評価され、主税局長から事務次官に抜擢されました。
その後、ワンマン首相と言われた吉田茂総理から大蔵大臣に指名されました。
総理となったときには、国立がんセンターをつくりました。
おそらく池田勇人氏も、天疱瘡に罹っていなかったら、総理大臣にはなれなかったと思います。
ルーズベルトのことを調べていたら、女性閣僚のパーキンズ長官のことを知りました。
日本初の女性閣僚は誰だろうと調べてみたところ、中山マサ厚生大臣のことを知りました。中山マサを厚相に指名した池田総理も、若いときに長期療養をしていました。
ハベレオ通信を書くことは、大変勉強になると感じました。
日頃の仕事や生活を通じて興味を覚えたことがらについて、その由来を調べてみると面白いことが発見できると思います。
今では、スマホをググるだけでも、いろんなことが出てきます。
もちろん、ネット情報は怪しいものもたくさんありますが、それらをきっかけにして本を調べてたどり着くと、得した気分になります。
本は重要です。
ルーズベルト大統領も池田総理も、療養中はたくさんの本を読んだことでしょう。
「病と本は人を変える」というのが正しい見方だと思います。
ルーズベルト大統領のことは、佐藤千登勢先生の新書が詳しいです。