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次のひと掃きを、ただ繰り返す。

早起きをした。目が覚めてしまっただけなのだけれども。
ときどき、こういう日がある。いや、早起きをする日という意味でなく、自分の無力感と万能感が交差して押し寄せる朝のこと。あるいは、夜中のこと。
毎日必死に文章を考えている気がする。違う、必死ではないかもしれない。必死に考えているのなら、もっと刺さるものがかけてもいいだろう。
あきらかに、手を抜いているのかも。
必死じゃなければ、書いてはいけないのか?NO。書く行為は自由だ。私の思考も言動も、倫理の範囲で自由だ。実は倫理も法律も全て後付なので、本当はもっと広い範囲で自由なのだが、別に法律や倫理まで無視するような欲求を抱いてはいない。
思考が散乱する傾向がある。注意欠陥の傾向があるのだ。やりたいことも、散乱する。文章が書きたい。だれかに刺さって抜けないような言葉。言葉は素晴らしい。心の窓だ。
なにかものを作りたい。手先は素晴らしい。なんだって生み出せる。やってみたいことは異様に多い。
古典と関わりたい。広めたい。貢献したい。研究室のすみでくだを巻いている場合ではない。ひしひしと、焦燥感が追いかけてくる。早くせねば、若い世代が、早く手を打たねば。

 〇

 ふたつきほど前だったか、午前三時半に目を覚ました日に、衝動的に書いた文章だ。書き途中で、そのまま寝てしまったらしく、下書きの奥に埋もれているところを先ごろ探索班によって発見された。

 こうして読み直すと、なんだか、鬼気迫るものがある。

 夜中や明け方は、静かで、大きな孤独の中にいるような、静寂と平穏をもたらす時がある。その一方で、焦燥感だけを駆り立てて、意味もなく不安を煽る日がある。この日は、そういう日だったようだ。焦りと、早い結果を求めて、一番大事なことを疎かにしようとしてしまうのだ。

  〇

 本棚に、ミヒャエル・エンデの『モモ』が並んでいる。
 このとても有名な児童文学には、ベッポという老いた掃除夫が登場する。主人公のモモの友達だ。彼は、街の人々が時間に急かされて生きていく中で、ただ一人、自分の時間を持って掃除をしていた。


「なあ、モモ、」とベッポはたとえばこんなふうにはじめます。「とっても長い道路をうけもつことがあるんだ。おっそろしく長くて、これじゃとてもやりきれない、こう思ってしまう。」
 しばらく口をつぐんで、じっとまえのほうを見ていますが、やがてまたつづけます。
 「そこでせかせかと働きだす。どんどんスピードをあげてゆく。ときどき目をあげて見るんだが、いつ見てものこりの道路はちっともへっていない。だからもっとすごいいきおいで働きまくる。心配でたまらないんだ。そしてしまいには息がきれて、動けなくなってしまう。道路はまだのこっているのにな。こういうやり方は、いかんのだ。」
 ここでしばらく考えこみます。それからようやく、さきをつづけます。
 「いちどに道路ぜんぶのことを考えてはいかん、わかるかな? つぎの一歩のことだけ、つぎのひと呼吸のことだけ、つぎのひと掃きのことだけを考えるんだ。いつもただつぎのことだけをな。」
 また一休みして、考えこみ、それから、
 「するとたのしくなってくる。これがだいじなんだな、たのしければ、仕事がうまくはかどる。こういうふうにやらにゃあだめなんだ。」

 私が『モモ』を初めて読んだのは、小学六年生だったと記憶している。この冒険の物語に、魅了された。亀のカシオペイア、不思議な時計の邸、美しい時間の花。まだ小学六年生の私にとって、『モモ』はなによりも美しいファンタジーだった。

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 それから、時がたって読み返すごとに、ちがう発見がある。

 中学や高校生の頃。ベッポじいさんの言葉を読んで「そうは言っても、世の中はそうさせてくれないじゃないか」と、勝手に憤りを感じていた。
 将来や、安定や、あらゆる転ばぬ先の杖を駆使しなければ生きていけないように見えた。中学に入れば高校受験の話、高校に入学すればすぐに大学受験の話。大学に入れば、就職をどうするのか。そうやって長期的な展望を持つことが、よしとされる。
 現実的な将来設計を立てれる学生は大人で、そうでない人間は未熟である。そんな風潮が蔓延していた。少なくとも私は、そういう風潮の中にいると感じていた。

 遠くを、五年後十年後を見据えるように。私たちの思春期には、常にそんな言葉が付いて回った。将来像、未来像。どんな大人になるのか。どんなキャリアを形成するのか。

 そんな質問を、あらゆるところでぶつけられる。
 そのたびに、自分がなんのために生きているのか、わからなくなる。

 気付けば、何もしていないのに疲弊して、そして、動けなくなっていた。次のひと掃きをする手が、止まっていた。

 じわじわと、息が詰まっていく。わたしたちは、いつも窒息しそうな社会の中にいる。

  〇

 ベッポじいさんの言葉を、きちんと受け取れるようになったのはいつのことだろう。

 実は、結構最近かもしれない。
 頭で『大切だな』と思うことと、本当に心に落ちて『そうだな』と思うことは、違う。

 次のひと掃きをひたすら繰り返す、それが本当に難しいことで、本当に大事なことだと、今なら分かる気がする。

 それは、今を生きるということだ。
 そして、その『今』のさきにだけ、未来があるということ。

 刹那的に生きるわけではない。だけれども、将来のために生きているわけでもない。ただ、次のひと掃きを考えて、足を前に出すこと。

 本当に大切に日々を生きるって、そういうことかもしれない。

  〇

 私たちは常に急かされて生きている。だからこそ、意識をして次のひと掃きのことだけを考えられる力が、きっと必要なんだろう。

 ベッポじいさんのように、私も生きたい。

 



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