母は三歳児だから、空を竜が泳いでいる。

「私三歳児だから、いやいや期だから」
朝、リビングの机で母がそう言う。
今日は調子が悪いらしい。いつも悪いけれど。
「今日は調子が悪いので、なにもしません」
視線を机に落としてそう続ける母は、確かにどこか子供っぽい。
今日は、というか、今日も、では。率直な感想を述べればまた落ち込むことは目に見えているので「わかった」と一言だけ返して、カフェオレを啜った。

私の母は双極性障害だ。
この一年間、ほとんどをベットの上で過ごして、体重は40キロを下回る時期もあったほどだ。みるみる痩せていく母を心配しながら、母の代わりに家事を行うのがこの一年の私の仕事だった。私も私で、心身を壊して大学院を休学中の身である。
鬱と診断され休学中の娘と、双極性障害と診断されて夜も眠れぬ母。ちなみに弟も不安障害である。

あまりにボロボロ家族だが、それでも歯車をまわして、今日も我が家は回ってる。

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三歳児を育てたことはないけれど、三歳児の母は厄介極まりない。
私がリビングから自室に行こうとすれば「どっかいっちゃうの？」と言い、何をするにも「やりたくないなあ、いやだなあ」というつぶやきが付いて回る。
稀に独り言をいうくらいなら可愛いが、ひとつ行動を起こすたびにぶつぶつとつぶやかれると、周りにいる人間の精神力はすり減っていく。怒ってもしょうがないので物理的に距離を置くに限るが、そうすると今度は「構って」攻撃がくる。

自らを三歳児と称すわりに、私や弟のやることなすことに小言を言い、掃除が行き届いてないと嘆く。嘆いては自分が動けないからだと落ち込み、廊下で体育座りをする。

いつのころからか「我が家の座敷童」を自称する母は、幸運を運んでくるとは到底思えない寝不足でやせこけた顔をしている。

三歳児は泣いたり自殺願望を口にしたりしないと思うのだけれど、自称三歳児で自称座敷童で、実際気配もなく廊下に立って家族を怖がらせる。それが我が母である。

　　〇

記憶にある限り、母は自宅の二階で寝込んでいるか、あるいは仕事に奔走しているかだった。
小学校から帰ってきて、二階の母にただいまと言う。大抵寝ている母は、か細い声で「おかえり」と返す。それを確認したら、隣家の祖父母の家でテレビを見たり勉強をしたりする。それが放課後のお決まりだった。
仕事をしているときの母は生命力に満ち満ちているのに、なぜ二階で寝ていたのか。あのとき実は鬱だったと知ったのは、私が中学生に入った頃だった。

それから母は元気になってまた仕事に奔走したり、かと思えば寝込む時期が続いたり、時に原因不明の半身不随になったりしながら、家族をまわしていた。

その間に私は癌になったり、不登校になったり、バセドウ氏病になったりして、それでもなんとか生きていた。

こうやって考えると、私も母も、生きるのに必死だったのかもしれない。
母と喧嘩するばかりで、憎くて憎くてしょうがない時期もあった。今も、過干渉や「普通」を求めてくることに嫌になる。それでも嫌いになれないのは、家族だからではなくて、母があまりに不器用なのを知っているからかもしれない。

　　〇

「ねえねえ、ちょっとこっちきてよ」

部屋でぼんやりとしていたら、母の声が聞こえた。興奮をどこか押し殺したような、そういう声。

「どうしたの？」
「竜がね、空を飛んでるの。みない？」
「……あー、じゃあ、見る」

竜が空を飛んでいるらしい。
母について、リビングに行き、ベランダに出る。
秋の風が心地よく吹き抜けて、そういえば今朝は肌寒ささえ感じたことを思い出す。気が付けば、夏が去っていた。

「あそこ、みて」

やわらかい秋の空に、雲が一筋。

「あそこがね、口。あっちが鱗。角も二本あるよ」

窓枠に乗り上げて、空を指さす。
そこには口をあけた竜が悠々と泳いでいた。

「ね、竜でしょ。竜にみえるでしょ」

得意げに、だけどちょっとだけ不安そうに、母が私を見上げた。
いつのまにか、私の方が背が高くなっていることを、ふと思い出す。

「たしかに、竜だね」
「竜でしょ、すごい。すごいなあ、運がいいなあ」

秋の夕暮れに、母と空の竜を眺めていた。

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私の母はときどき三歳児になる。
廊下で座敷童のように体育座りしたり、急に泣き出したり、時には意味もなく犬の真似をしてたりする。
私や家族はそれを流したり、あしらったり、時に我慢しきれず喧嘩したりしている。

そして時々、三歳児は本当の三歳児のように、世界を見つめていたりする。

空の竜が風でほどけるのを見上げながら、今日も我が家は回ってる。