届く言葉と届かぬ言葉。
世の中には、届く言葉と届かない言葉がある。
それは、読者の数や人気の差異ではなく、言葉そのものに宿る力じゃなかろうかと、私は思っている。
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言葉を届けたいときに、きっと大切なのは「教えてやる」って態度じゃないんだろうなって、思う。
「世界の真理を教えてやろう」みたいな態度で来る人っているじゃない?いやだよね、ああいう人ね。なんで嫌なんだろうって考えるとき、きっと言葉に無意識に「自分のほうが格上」という態度がにじみ出るからなんだろうな。教えること、伝えることが、上から下への行為だと思っているのかもしれない。
どうにも、苦手だ。
そういう人が何を言っても、自分の中には全くしみ込んでこない。不思議なくらい。
でも、そういう人ほど、影響力が大きい気もする。もちろん、全員じゃない。だけれど、強い言葉を使えば使うほど、己が正しいと信じれば信じるほど、反響は大きくなっていく。
人は強い言葉に弱い。
でも、そういうのって、なんだろな。一瞬の衝撃みたいなもので、ずっと大切に仕舞われることはないんじゃないかな。
たとえば、バズったブログ。『お気持ち表明』なんて呼ばれる類の者や、人が感情的に記した言葉。ある瞬間に爆発的に拡散されて、人々の口にあがる。だけれど、その内容を一月先も覚えている人は何人いるだろう。その人が書いたものを、その後も追う人が何人いるだろう。
ジェットコースターみたいなものだ。一瞬、ヒュッと落ちる。感情がぶんぶんと振り回されて、その落差に気持ちが追い付かなくなる。炎上、とかはこの類だろう。
でも、そういった言葉はすぐ忘れ去られてしまう。
それを、届いたというのだろうか。
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私の恩師は言葉を届けたいとき、必ず一拍おく。ちいさく、ひと呼吸をする。
授業中や、隠れ家みたいなカレー屋さんや、廊下での立ち話や、シニア向け講義。どんなときでも、先生は穏やかに微笑んでいらっしゃる。でも、大切な話をするときだけは、必ず一拍置く。すると、一瞬、すっと空気が張り詰める。
そうして先生がされるお話を、私は実は大切に記憶の棚に仕舞っている。忘れないように、自分の言葉にできるように。
なぜ先生の言葉は、こんなにまっすぐ自分の心に刺さるのだろう。
それはきっと、先生の言葉が自分自身に言い聞かせる響きを持っているからだ。『教えてやろう』という空気を、まったく感じない。
『ここに、置いておきますね』
私には、そう聞こえるのだ。
『ここに、私の人生で見つけた大切なことを置いておきます。必要なら、もらってください。気付いたらで、いいんですよ』
そんな感じ。
だから、先生は一拍おくのだろうな。大切な言葉は、感情にまかせてまくしたてるのではなく、丁寧に静かにただ置く。それを受け取るか受け取らないかは、聞く人に任せる。
本当に人に届いたといえる言葉って、きっと、そういうもの。
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『今からいいことをいいます。心に刻むように。』
みたいな態度で話されると、正直心底しらける。これは、私がひねくれているからで、私が悪いのかもしれないけれど。
自分にとって大切な言葉は、きちんと自分でみつけたいのだ。
誰かがパッケージ化した『人生の感動』よりも、自分でそれを見つけに行きたい。誰かが綴る対外的な言葉よりも、自分に言い聞かせるような温度と湿度を持った言葉を聞きたい。
届く言葉には、きっとそれがある。
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