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初夏を吸い込む。

電車に乗るのはひと月ぶりのことだった。

  〇

通院している二つの病院の、それぞれの薬がちょうど同じタイミングで底を尽きた。五月に入ったが非常事態は解けない。五月までの分を頂いた薬が切れるのは当然で、近くの内科も、遠くのクリニックにも、行かなくてはいけない。そこで、本日は病院の梯子という、およそ二十台の若者には似つかわしくない外出理由でのお出かけだった。

地元でかれこれ十年ほどお世話になっている内科も、ご多分に漏れず受付にシートが張られていた。風や発熱での来院でないことを確認され、体温を測った後に、待合室に腰掛ける。

小綺麗な院内は、いつも通りご年配の方が多かった。このあたりは駅前の古い町で、高齢化が進んでいる。町医者というのはこういうものなのだと、来るたびに思う。しかしゴールデンウイーク明けもあってか、朝一番にも関わらず中々の込み具合。テレビに流れるコロナ関連のニュースを聞かないように、鞄に忍ばせていた薄い文庫本に目を落とし、採血に呼ばれるのを待つ。診察は五分程度、数値の異常を確認して副作用が出ていないことを確かめる。それから、体調の変化や薬の量を調整し、会計。何度も繰り返した流れだが、やはり今日は少し時間がかかった。病院を後にして駅に向かう頃には、太陽が高い位置まで登り、立夏の日差しをアスファルトに照らしつけていた。

  〇

駅の中も、行くたびに様変わりしている。

図書館は五月いっぱいは休みだと張り出されていた。しかし、美術館図書館の開館は規制緩和という話もある。変わるかもしれないことを念頭に置きつつ、それでも開かない自動ドアの前で張り紙を眺めるのはやはり物悲しい。

しかし、閉じるところがあれば、開くところもある。

駅に昔からある本屋は、営業を再開したらしい。
本が大量に並ぶさまを眺めるのも、実にひと月ぶりかもしれない。思わず、文庫を二冊ほど購入した。また、積み本ができるが、致し方ない。小さな鞄にパズルのように文庫を詰め、その重さが少しだけ愛おしい。

ICカードにお金をチャージして、電車に乗り込む。
街までは、およそ三十分。病院の予約時間までは余裕があり、いつもなら快速が止まる一番ホームへ向かう所を、一瞬の逡巡の末、普通列車の止まる五番ホームへと向かう。

少しだけ長く、電車の中で過ごしたかった。

  〇

駅を出ると、家々が飛んでいく。まだ水の入ってない田が見える。高くなった太陽が、街の彩度を上げて、緑を濃くしている。光が色を持って見える。車内にいるはずなのに、風が抜けていくのを肌で感じた。川面のきらめきが、あまりに細かく、繊細で、力強い。

萎れていた植物が、久方の雨を喜ぶように、心が水を吸い上げていくのを感じる。

もう一つの通院先は、大学の最寄り駅にある。
いつもなら込み合う車内も、休校期間となれば人も少ない。改札のある地下道から表へ出て、大きく伸びをする。

心地よい風が吹いていた。

  〇

週に一度の買い出し。二日か三日に一度の散歩。

身体にも心にも、気を遣って生活をしているつもりでいた。
それでも知らぬ間に、こんなにも乾くものなのか。電車の振動にゆられ、ぼんやりと過ぎゆく街並みを眺める。そこに息づく、窓の向こうの生活を想像する。それだけのことが、脳みそを揺さぶるほどに、眩しい。

この騒がしさが落ち着いたら、電車に乗ってあてもなく旅をしたい。

見知らぬ駅で降りて、知らない神社を参拝して。
古い自販機を見つけたり、変わった看板に笑ったり。
あやしい商店で、あやしげなお菓子を買ってみたり。
おいしいパフェを食べたり、川に足を浸けてみたり。

電車に揺られ、少し遠くへ。

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その日が来るのを心待ちにして、もう一度初夏の風を肺の奥まで吸い込んだ。


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