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片腕がないあの先生に学んだこと

ふと、中学校の国語で学んだ「ゼブラ」について思い出した。
あらすじは、たしかこんなかんじ。

走るのが好きだった少年が、事故にあう。そのため、もう以前のように走ることはできなくなる。腕を骨折してギプスで止めて、指が少し動く程度……だったきがする。そんな彼が通う学校に、新任で美術の教師が来る。その先生は、左腕がなかった。
少年は、先生の授業を通して自分の失ったものやトラウマと向き合う術を得る。そして、反対に先生にもトラウマと向き合ってほしいと、絵の制作を行う……。

完全にうろ覚えなので、もしかしたら間違っているかもしれない。

当時、この「ゼブラ」は私にとって衝撃だった。
それは簡単に言えば、「大人」が「子供」から教えられるという構図を取っているからである。しかもその「大人」とは主人公の少年を救ってくれた先生なのだ。つまり、人を救うことやトラウマと向き合うように勧める人が、自分もまた自身の焦げ付きを解決しているとは限らない、ということに衝撃をうけた。それを描く姿勢を、とても複雑で高度なものだなと感じた。

例えば、漫画や小説、ゲームでもいい。主人公が困ると、必ずそこに助言をくれる人が現れる。そういう人は、大方おばあちゃんやおじいちゃんで、全てを悟っているような顔をしている。あるいは、小学校教諭や中学校教諭。教壇の向こう側は、間違いのない完璧な世界なのだと子供に教えこもうとする。

それは、普通に考えればありえないことだ。「正しいこと」を全て承知している人間なんてこの世には存在していなくて、だから私たちは考えることをやめてはいけない。一人一人が思考を放棄しないこと自体が、社会をよくする最大の武器だからだ。

そういう意味で、この「ゼブラ」という教材は、私に「大人が正しいとは限らない」と示してくれた作品である。

私は主張の強い子供だったので、おかしいと思えば相手が教員だろうが不良だろうが怒鳴り込みに行くぐらいの正義漢だったわけだが、「ゼブラ」によって「それは正しい」と後押しを貰った気がした。まあ、これは周囲の大人からしたら非常に厄介だっただろうなあとも思うのだけれど。

「ゼブラ」に登場するあの先生。もう名前も忘れてしまったが、あの先生に向けて少年が美術作品を作っているシーンで、私はとてもドキドキした。彼のトラウマを抉るような、「ここに穴が空いているだろう」と指摘するような、そういう作品。それは、図星をつくような行為であって失礼だし、場合によっては激昂されることもある。

ドキドキしながら、読み進めた。怒られるのではないか、余計な知恵を働かせるなと言われるのではないか。それは、私が当時教員から向けられた「生徒が教員に口答えするな」という視線と重なった。教壇を隔てるだけで、私には人格も人権もなくなる、あの感覚。

だけれども、あの先生は、少年の作品をきちんと受け止めて、心の中に落とした。そのさまが、とても大人に見えた。

歳を取れば取るほど、人は繕うことがうまくなる。傷口を隠したり、のらりくらりとかわしたり。だけれども「ゼブラ」に出てくる少年のように、ときにまっすぐとそこを貫く存在がいる。もし、そういう存在が現れたとき、私はそれをまっすぐ受け入れることができるだろうか。相手の所属や年齢やそのほか様々なレッテルを外して、『正しい意見』を選び出すことができるだろうか。

あの先生のように、何歳になっても素直でありたいなと、そう思う。


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