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ゆたかな言葉に憧れて。(#ゆたかさって何だろう)

大学の同期に、「ミウラさん」という子がいた。三浦でも、水卜でも、深浦でもない。ミウラさん。
学科の名簿の中にその名前を見たとき、変換ミスなのかと思った。だけれども、違う。彼女の名前はミウラさん。ミウラさんは名字がカタカナだった。

  〇

「ミウラさん、これ、名簿がカタカナなのですが、あってますか?」
先生がそう尋ねると、ミウラさんはいつも通り少し仏頂面で「ああ、まあ、はい。あってます」と答えた。

大学二年の四月、古典文学を専攻した私は、演習の授業でミウラさんと同じ教室にいた。ちいさなゼミ室で、一回目の授業だった。教室に入ってきた先生は外部からの非常勤講師で、初めて会う方。授業の内容や軽い自己紹介を済ませた後、先生は学生ひとりひとりに自己紹介をするように言った。

ミウラさんの自己紹介は、当たり障りのないものだった。古典文学にはそれほど詳しくないこと、国語教員を志していること。たしか、そんな話をしていたように思う。
ミウラさんの名字が表記ミスでないことを確認した先生は、へえっと、少しだけ不思議そうな顔をする。

「なんで、カタカナなんですか?」

そのまま、そう尋ねた。
次の人の自己紹介へ移るだろうと思っていた私は、少しだけ驚いた。それは、私自身気になりながらも、なんだか聞けないでいたことだからだ。そもそもミウラさんとは接点とよべる接点がなく、名前と顔が一致している、その程度の間柄だった。
「あー、えっと」
ミウラさんは、少しだけめんどくさそうに言葉を濁した。
「ああ、答えたくないようなことなら、いいんですよ。ごめんなさいね、気になっただけですから」
「いえ、そうじゃないんですけど」
教室が、にわかに緊張感を持つのを感じる。先生とミウラさんのやり取りを、残りの21人が静かに見ていた。

「祖父が、ハーフなんです。ブラジルの。それでなんか、名字変えたらしです、ルーツみたいなそういうので」

へえ、と教室にいた全員が声を漏らした。へえ、そうなんだ。ミウラさんの中には、薄いけれど、外国の方の血が流れているのか。そういう声だった。
ミウラさんは、少しだけ居心地が悪そうに、目線を机の上に落としていた。
「ほう、そうなんですか」
先生はどこか嬉しそうな声音で、それからこう続けた。
「それは、ゆたかなことですねえ」

ミウラさんのいつもすこしだけ気だるげな瞳が、その時だけ驚いたように丸くなったことを、私はよく覚えている。

  〇

ゆたかさとはなんだろう。そう問うときに、様々な答えが出てくる。
お金や、環境。言葉や、出会い。価値観に、多様性。

私は古典文学を専攻している。千年も前の言葉を様々な角度で読み、あれやこれやを考える学問だ。当時の状況、言葉の意味、作者の置かれた立場。多くの要因をすべて一つの鍋にいれ、ぐつぐつと煮込むことで、今にまで残る文章をどう『読む』かを考える。そいう学問だと、思っている。

しかし、文学はいわゆる『食えない』学問の代表格だ。古典文学を専攻し、あまつさえ大学院にまで進学しているという話をすると、『それはなんの役に立つのか』という問をぶつけられる時がある。つまり、利益はなにかと。

古典不要論が叫ばれて久しい。文系学部の規模縮小が進む今、なぜ文学なのか。多くの人が、様々な立場から議論している。

もし、この問に私がひとつの答えを出すとするならば、「それは『ゆたかさ』のためです」と、そう答える。

  〇

ゆたかさとは何だろう。
それは、人の持つものを否定しないということではないだろうか。
つまり、多様な考え方、物の見方、生活のあり方を受けいれるということだ。いや、受け入れる、という表現は正しくない。私自身が、その多様性の一端であることを認識することである。

そして、ゆたかであるためには言葉が必要だ。
人を否定しない言葉。人を傷つけない言葉。
言葉は、時に無自覚な刃で人を切り裂く。ふっと放った何気ない一言が、鋭く尖り、人の心臓に突き刺さるのだ。世の中には、自覚的に人を傷つける言葉を振り回す人もいる。しかし、多くの人は、無自覚に刃を振るう。偏見や差別意識を誰だって心に抱えている。

だからこそ、言葉を知る必要性がある。文学を学び、感情の複雑さを認識する必要性がある。
多様な生き方や、人生があること。それぞれに、ルーツや苦しみがあること。そのことを、いつだって自分に言い聞かせる。

人を傷つける言葉を使わないために、ゆたかな言葉を持つ必要がある。

  〇

「それは、ゆたかなことですねえ」

先生がそうおっしゃったときのことを、きっと私は忘れない。

四月の、暖かな日差しが差し込む、北側の校舎。二階の南に面した教室だった。三時間目はお昼休みのあとで、みんなどこか微睡の中にいた。

にこやかに微笑んでいる先生の顔を、少し目を丸くしてミウラさんが見つめていた。一拍置いて、「あ、はい」と返事をする。先生が、満足そうに一度うなずいた。
「ルーツを感じられる、良い名字です。素敵なおじいさまだったのですね」
ミウラさんは眉を少し下げて、「はい」と言った。

『ゆたかなことですねえ』
自分の心の中に、すっと入り込んできたその言葉を、私は口の中でなんども繰り返していた。
ゆたかなことですね、ゆたかなことですね。
なにか、大切な宝物と出会ったような、そんな気がしていた。

もし自分だったら、なんというだろう。ミウラさんにブラジルの血が入っていることを、もし自分が聞いたとしたら。
「へえ、そうなんだ」
この言葉に、ミウラさんが今までの人生でどれくらい出会ってきたのかを考えた。きっと、うんざりするくらい、見えない好奇の目に晒されてきたに違いない。
尋ねられるたびに、名字を変えた祖父のことを恨んだかもしれない。外見に南米の血を探すような眼差しを、いつも感じてたのかもしれない。

「ゆたかなことですねえ」
その言葉を聞いたときのミウラさんの顔を覚えている。少し驚いて、丸くなった瞳を。もしかしたらあれは、ミウラさんが救われた瞬間ではないだろうかと、今でも思う。

「ゆたかですね」という先生の言葉こそ、本当の『ゆたかさ』じゃないだろうか。そう強く感じた。

  〇

私が何故学ぶのかと問われれば、『ゆたかさ』のためだと答えるだろう。それは、人に優しくするためであり、同時に自分に優しくするためである。

古典文学が好きなことや、それに心を救われた経験があること。それらは自分の中で大きな出来事で、だけれども好きと言う燃料だけで道を志すのは難しい。少なくとも私には、難しい。

だけれども、あの春の陽光が漂うような教室で、先生の言葉を聞いたとき。すとんと、言葉が心の泉に落ちたとき。
この人のような『ゆたかさ』を自分も持ちたいと、そう思った。
ゆたかに言葉を操る、その姿に憧れた。

あの日耳にした、天啓のような言葉。
その『ゆたかさ』に少しでも近づけるよう、日々言葉を探している。


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