竹林のささやきに耳を澄まして
獨り坐す 幽篁の裏
琴を彈き 復た張嘯す
深林 人知らず
明月 來たりて相照らす
王維の竹里館を思い出すとき、同時に私は夏目漱石の『草枕』を思い出す。本編に引用もされているこの詩は、静謐なイメージと遁世的な余韻を残して、好きな漢詩のひとつである。
〇
幽篁(ゆうこう)に佇む自分を、目を閉じて想像してみる。
あたりは一面、竹やぶ。ざわざわと、天の方で笹が触れ合う木ずれの音。どこか雨音のように感じるのは、あたり一面から音が聞こえるからだろうか。
静かで、自分だけがぽつんと世界にいる気がしてくる。
境界があいまいになったり、あるいは個を強く感じたり。
どうにも、植物にはそういう力があるのではないかと思えてならない。
つまり、静かな内省へと導く力である。
今朝、庭で植物の様子を見ていた。
芽を出したマリーゴールド、蕾を付けた躑躅。大きく花開くガーベラも、花が落ち若葉を茂らす椿も。
草木の前で座り込んで、じつとそのしっとりとした葉を見つめていると、不思議と気持ちが凪ぐのがわかる。
あるいは、なにかにざわついている心を、対象化して眺めることが出来る。
能動的な移動も、発声もしないのに、植物たちは確かに生きていて、時々その生命力の瑞々しさに驚きを隠せない。花弁のなめらかさも、土の湿り気も、若葉のたおやかな緑も、美しすぎて唖然としてしまうのだ。
意識して心を観察する眼を持つと言こと、植物たちはそのための静かで心強い友なのかもしれない。
〇
心の中に、自分だけの幽篁を持つと良いのかもしれない。
そこでは、心を落ち着ける音楽を流し、好きな詩を口ずさみ。
空を見上げると、ただ明月が笹の葉のあいだから覗くのだ。
だけれども、私は知っている。
実は竹林と言うものは、手入れしなければすぐに荒れると言うことを。
明月を眺め、音に揺られ、詩を愛でる時間だって、手入れをしてくれる人がいるから成し得ることなのだろう。
王維の孤独も遁世も、きっと一人では成立しない。
そのねじれのようなものを、なんだか愛おしくも思うのだ。
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