積み重なった自分。
書くことがないというよりも、物を書く体力がない。
話の種なら尽きず、口から先に生まれてきたんじゃないかと言われた回数は数知れない私である。しかし、まくしたてるのではなく、ちゃんと読みやすいように書こうとすると、途端、体力がいる。
そういうことで、日々白いnoteに三行ほど書いては、これは体力がいるのでまた今度にしようと下書き送りにしている。先日、下書きの数を見たら40程あった。嘘だろ。
書くとか読むとかが、私がどちらかというと好きな方だし、大切だと思っている。だけれども同時に、それほど高尚なことじゃないとも思っている。思っている、というか思うように努めている。
絵が線をひけば描けるように、文章だって言葉を並べれば完成する。その出来栄えについて考えて『こうでなければ絵ではない』と思ってしまうのは自分自身で、そういう考えがあるからきっと絵が描けなくなるのだな。
私の場合、文章を作ることは、放牧されている羊たちを一か所に集めて並ばせるようなことだ。あちこちで日々の出来事を草のように食み、それぞれがそれぞれ、毛綿の如く柔らかくて形が保てない思考の種を持っている。それらを小屋に追い込んで、毛を刈って、糸を紡いで、染めて、織る。重労働だ。そうやって出来た布を出した日の記事よりも、ええいと刈り取ったあとの、まだ羊臭い毛の方が伸びたりするときもあるので、やはりこだわっているのは書いている本人だけなのだなと思う。
ああ、ほらみろ、タイトルから話が逸れた。
いつも、というわけではないが、どちらかというと先にタイトルを入れるほうだ。全部書き終えた後に、もう一度考え直して変更することもある。なぜ先にタイトルを決めるかと言うと、そうしなければ話が逸れるからだ。自分でなんとなく決めたゴールにたどり着けない。そんなことあるか?って思うのだが、実際すぐ話は逸れるのでしょうがない。羊が勝手気ままに草のある方へ歩いていくのだ。
なんだっけ。そう、高尚なことだと思うのは各々の勝手だが、書くも読むもとても個人的な行為だ。『こうあらなくてはならない』は自分のうちにあるだけならよいが、人に求めだすと途端ほころぶ。単なるお気持ち的なものだとしても、人に押し付けようという下心が少しでもあると、それはまあ、拡大解釈していえば人権侵害だ。人の思考を支配して行動をコントロールしようなどという、到底人間一人には過ぎた感情を持っていることを、自覚した方がいいだろう。だから、高尚じゃなくていい。自分の好きなように、書けばいい。
ん?こういう話をしようと思ったのか?
ちがうな、これも枝葉の先だ。捕まえる羊を間違えた。
そう、書くのに体力がいるのだ。
その体力がなくなると、自分が何を書きたいのか分からなくなる。
そういう日に、noteの自分の過去の記事を見る。読む。流し読みしたり、タイトルだけみて何を書いたのか思い出したり。
noteをしばらく続けて得たメリットとして、過去記事というものは大きい。その時々の自分の言葉が残っている。それはつまり、外部メモリーに残した自分自身の輪郭だ。
人は多面性を持っていて、常に同じ顔をしているわけではない。
お菓子作りが好きだったり、花を部屋に飾った記事を書いたのも私だ。古典について暑苦しく語っているのも私で、部屋の隅でじめじめとした記事を書いていたのも、私。
noteの過去記事には、積み重なった自分がいる。
自分に何が書けるのだろう。何のために書くのだろう。
疲れてくると、真っ白なnoteと積み上がった下書きを前にして、そう思うことがある。でも、積み重なった日々の記事が、ときどき教えてくれるのだ。
私は私の輪郭を捉えるために、書いているのだと。
〇
今度はちゃんと正しい羊を捕まえたみたい。
ぱぱっと書いて、ぱぱっと寝る。そこそこ続ける、を第一目標にしていることを忘れないように。
おやすみなさい。
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