chapter3 : 食べられない。食べている。
父は癌が見つかってから5年の間、もちろん入院を何度もしたが、基本的には家で過ごすことができていた。
父は癌という病に対峙するにあたって、なんとなく嫌だなと感じることに従順であったような気がする。
なんといっても最初に癌が見つかったときの、医師の話し方に傷ついた。余命6か月と言われたが、その6か月をこの先生の元で過ごすのだったら、放ったらかす事を選択するべく、お金を出して、そのような考え方をすることで有名な先生のセカンドオピニオンを伺いに行った。
ところがそこに行ったら、どうぞ自由にお生きなさいとお言葉を頂けるのかと思ったら、やはり医学者。診断書に間違いがないと言うことを確かめ、勝手に生きる道を提唱しつつ、別の逃げ道も与えてくださった。結局、父は逃げ道を選ぶことになる。
この先生から紹介できる病院の名前を聞いたとき、申し分のない話ではあったが、そこでお願いせずに、昔から信頼する父の仲間、友達からの縁で病院を選んだのは、なんとも父らしい話である。
気立ての良い先生に出会う事ができ、納得の治療を受けることができたが、しかし、手術したあと、しばらくして転移、手術が出来なくなり化学療法、それにも耐性がつき‥と、手の中にあるカードが一枚一枚減っていくのが癌の強さだった。
その少なくなっていくカードを、一生懸命増やしたのが、横で支えた母だった。母の家系には医療従事者が多くいるので、治療を信じているし、それを選択しない手はないと考えていたと思う。
本当に母は頑張っていて、でも弱音を私には見せなかった。後になって銀行の通帳を見たときに、母の心の内が明細の数字に顕になっていて、その追い込まれように驚いたが、そのころ私はあえて子供らしく、ちょっと頼りないキャラのままでいようとしていた。
父もどこかで、そんな風に振舞っていたんじゃないかな。
結果、余命6か月と宣告された父は、5年も生き延びることができた。それはすごいことなのだけれど、治療法の切り札を全て使い果たしたときに、母はばったり倒れてしまった。
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2019年6月。
家のベッドで寝込んでしまっているママとパパ。途方に暮れる私。
何か食べたほうがいいよ。お粥でもつくろうか?と聞くと、母は飲まず食わずのまま。父の方は、肉を、すき焼きにする様な肉を、さっと焼いてもらえないかな?と言うので、OKと、私はお肉を買いに外へ出た。
父はいつでも平常運転だ。
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