chapter5 : 父のかき氷
母が脳梗塞を発症し、scuへ運ばれた翌日。父の訪問看護の第1日目が始まった。
看護士さんが体温、血圧を測ったのち、触診をした。その即座の判断で、スケジュールには組まれていなかった医師が家に来ることになる。
そのときには変化に気が付かなかった私も、医師を待つうちに、父の容態が明らかに急変していくのが分かり、慌てた。医師が到着し、「家でこのまま過ごす事も、ホスピスに行くことも出来ますが、どうされますか?」と問われたので、家でこの状態を診るのはちょっとムリです!と私は答えると、ただちに救急車が来て下さって、隊員が大きな風呂敷のようなものに父を乗せ、その布端を2人体制でつかみ、もう1人が狭い廊下を玄関まで誘導する形で、車に乗った。
私は母と父、日替わりで救急車に乗るという経験をした。
-------------------
ホスピスに着くと、応急処置が施され、父の容態もひとまず安定。MRIを撮ったその写真を父と私の二人に見せられて、私は絶句する。これを見た後に母は倒れてしまったのか。
肝臓から始まった癌が肺へと転移しているのは私も知っていたが、この写真の中に写るものは、何と言うか、例えれば、大友克洋の「AKIRA」に出てくる鉄雄の変貌のようだった。これを今さら見る必要があるのか?と、そのときは思ったが、この経験が後で母を助けることになる。
それでも父は生きていた。
かき氷は食べても良いという事で、用意もされていたので、スプーンから口に食べさせてあげた。
「スイのが食べたいなぁ」と、粋なことを父は言った。それじゃあ家に帰ったら砂糖水を作って、ここに持ってきてあげようなんて、私は思った。
父は私と同じ一人っ子だったので、母方の親戚たちが会いに病院へやってきた。父はいつもと変わらなかった。
また不思議な以心伝心で、父の親友からも電話があった。電話口で父が「二葉百合子の岸壁の母になっちゃったよ」と話すのが聞こえ、そのときには意味が分からなかったが、ずいぶん後になってテレビの歌謡ショーで島津亜矢がカヴァーした「岸壁の母」を聴き、私は涙を流した。人生をいろいろ経験したあとの歌謡曲は沁みる。
夜になって、看護士さんから、今日はこのまま泊ってくださいという事で、わかりましたと、カウチのようなベッドで横になる。この期に及んでも、父が亡くなるというイメージが自分の中に浮かばず、私はそれなりに眠りにつき、夜中に看護士さんが見回りに入室する間あいだには、熟睡もしていた。
夜明け前。事情も事情だったため、早朝にバイトをしていた私は目を覚まし、父と軽く話を交わしたと思うが、あまり詳しく記憶はしていない。バイトに行く準備のため、身を整えたり着替えたりし、父にそれじゃあ出かけるねと言ったときに、看護士さんが飛んで入ってきて、お父様の容態が!と。
父が亡くなった。
看護士さんから、バイト先に連絡してくださいと言われて、課長の携帯に、いま父が亡くなりまして、今日はバイトに行けなくなりましたと、涙声で連絡をした。電話を受けた課長さんも何が何だかと思っただろう。
私としては、5年という年数をかけて癌の治療をしてきた父の、時間を受け入れてきたし、父は父で心を強く生きてきたので、さほどの後悔はない。
ただひとつだけ「スイのかき氷」を食べさせてあげたかったというのは、時折思い出すたびに、心がチクンと痛むのであった。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?