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スペクトラムな合理的配慮を目指して

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スペクトラムであることの難しさ

スペクトラムとは?

スペクトラムという考え方はここ近年のもので、日本語では”連続体”と訳されます。

たとえば自閉スペクトラム症が一番有名だとは思いますが、一言に自閉症と言ってもその症状は千差万別です。

知的障害を伴う狭義の自閉症から、知的障害を伴わずに高い知的能力をもった高機能自閉症、境界域とされるアスペルガー症候群など、その症状の程度によって名前こそ分類をされていますが、その線引きはあいまいでまさに”連続”して存在している状態です。

さらには、自閉症、ADHD、学習障害の3つは円が重なり合っていて、共存、併存している場合も多いです。
また最近では、運動協調性発達障害(DCD)も神経発達症に含める考え方が広がりつつあります。

その4つの疾患の領域というのも、明確な線が引かれているわけではなく、これもまたスペクトラムの状態となっています。

また、グレーゾーンと呼ばれる、診断は下りないものの日常生活でその自閉特性などから生きづらさ、困難さを抱えている状態のかたも大勢いらっしゃいます。

それらも含めると、いったいどれほどの方がこの神経発達症というくくりの中で困り感を抱えているのでしょう。

合理的配慮

合理的配慮、という言葉があります。
教育や就業において、障がいのある方の人権が障害のない方と同じように保証され、平等に参加できるようにそれぞれの特性や困りごとに合わせて行われる配慮のことを指します。

では、このスペクトラムの状態のなかで、どこまでを障害のある方と定義して、どこまでの範囲で合理的配慮を行い、どこからは行わないのでしょう。

具体的な合理的配慮として、学習障害のお子さんに授業中はタブレットの使用を認める、といったことであったり、ADHDで集中が困難なお子さんに対して別室対応を行ったりするというものです。

このような合理的配慮は一見すると、正しかろうことのように見えます。
おそらく正しいのだと思います。
今の時代は。

合理的配慮もスペクトラムの考えが必要

では、グレーゾーンや傾向を持つ方への対応も、同じように行える世の中でしょうか?

おそらく難しいと思います。
現実問題、そんなに多く個室や加配職員がいるわけでもありません。

とりわけ、この連続体の境目にいる、疾病としての名前はつかないけれど生きづらさや困難さを抱える状態のお子さんへの理解と支援、合理的配慮というものは、まだまだ追いついていないのが現状だと思います。

合理的配慮にも、連続体、スペクトラムとしての考え方が必要だと思います。

すべての人に合理的配慮が当たり前になされ、自由に発信し、相談でき、支援を受けるだけではなくて、支援の方法を自分で選択できるような社会にならないと、この、合理的配慮というものは一部の方だけの物になってしまうような気がします。

そうなるには、あとどれくらいの年月がかかるでしょう。
今、目の前で支援をしているお子さんたち、または今現在社会の中で生きづらさを抱える大人たち含め、しばらくはこの生きづらい世の中を何とか生きていかなくてはいけません。

安易に、自分の目の届く範囲だけ、支援の行き届くところだけ、合理的配慮をしていればいいというわけではないと思います。
それは、支援者側のエゴです。
自分は、合理的配慮をしているぞ、、、と。

対象となるお子さんの関わる場所すべて、未来へ向けた時間軸も含めたマネジメントが必要と思います。
あわせて、この住みにくい世の中で生き抜く力を身につけていくことも。


今日の内容は以上です。

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