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大八木監督は"男"ではなく"漢"だろと叫んでいる

箱根駅伝からほぼ1ヶ月、駒澤・大八木弘明監督「オトコだろっ!」がいまだ話題だ。朝日新聞は1/26耕論で1面つかって識者3名が解説(トップ画像)。日経の女性向けARIA1/19では、男らしさへのプレッシャーを視点にコラムが出るなど。それぞれもっともなことを書かれている。

が、共通する誤解もあるように思った。

1.「一人前の大人」であることを示す"漢"の意図であって、男女の区別をする"男"の意図ではない
2.そして大学とは「一人前の大人」を育成する場
3.女子大学生でも同じようなことはある(が問題にされない)
4.欧米でもスポーツの男性偏重性はある

など指摘できる。結論として、これはこれで大切に遺しながら、新たに女性監督とか英語ベースの監督とか、多様化が進めばいいと思う。

そして、来年の箱根での大八木監督の叫びに注目したい。笑

男と漢

誤解とは、これら全て「男」という漢字があてられていることに由来する。三省堂国語辞典の編纂者、飯間浩明氏(上記朝日にも寄稿されてる)2008年コラムによれば、男とは単に性別の男女を区別する言葉。「男児」「男声」「男優」などだ。

タイトルにあげた「漢」では、大人の男性に絞られる。

上記コラムで例示される熱血漢硬骨漢酔漢痴漢、すべて責任ある大人としての行動がこれ、と強調しているような表現だ。まあ痴漢高校生とかありうるが「貴様オトコのクズだ」的な話になるわけでここは大人扱いでOK。酔漢高校生なら単なるNG。ほかは熱血少年、硬派少年、等々区別される。

この成人男性の中でも、「力強い・頼もしい」などの属性を強調して使うようになったのは、比較的最近なんだと。

つまり、18歳〜22歳あたりの男性にとって、「漢である」とは、「男性の中でも上位な存在である」と認定されるということだ。

まあ漢字としての一般性は、男、はだれにでもわかり、漢、は特殊なので、男が使われるのは普通なのだが、意味は区別したほうがいいと思う。

同年代の女性では

この女性版を考えてみる。大学キャッチコピー一覧によると、女子大のキャッチコピーは:

お茶の水女子大学: 女性の力を、もっと世界に。
津田塾大学: 「変革を担う女性」の育成
日本女子大学: 理想の生き方を見出して、輝き続ける女性になる
聖心女子大学: 「真の教養人」を育てる「リベラル・アーツ教育」
清泉女子大学: 向き合うひとになる。
白百合女子大学: 知性と感性との調和のとれた女性の育成
女子美術大学: 「芸術による女性の自立」・・・

と、女性を強調したものが多い。これをどう解釈するか?

女子大という特性から女性性を強調するのが当然、ともいえる。その対比でいえば、男子限定の活動である男子駅伝部が男性を強調するのは当然であるようにも思われる。

ところで、女性の場合、「全女性の中でも上位の女性」を一語で表す言葉はあんまりない気がする。「淑女」もちょっと違う。男性社会の方が競争圧がキツいのはあるかもしれないね。まあそれはここでの論点ではない。

教育機関として

そもそも的に大学とは、大人として一人前になるための場。どのような大人になるのか?について教育理念が大学ごとにあり、まとめていえば、「一人前の大人になれ!」ということだ。なれましたよと認定されることは大きな価値があり、400万円とかの教育投資に対する成果として十分。

つまり、「立派な成人男性になれ」も「立派な成人女性になれ」も、大学という世界の中で、それぞれに健全に存在している。

教育的集団でのコミュニケーションとしてみると、田中優子・法政大総長は「え? こんな言葉で今の青年はがんばれるの?」とまず疑問に感じたそうだが、

過度な一般化である。「こんな言葉」のこんな、の定義が不明確。「今の青年」とは大きすぎる主語。大学のレポートなら減点されるかもしれないというのはジョークのおもしろくないやつですが、

2−3年間の密な指導の中で、それぞれに長い長いコミュニケーションの蓄積があるはずで、その関係性を踏まえての一言であることは、見逃してはいけない。

2015年の著書、『駅伝・駒澤大はなぜ、あの声でスイッチが入るのか―「男だろ!」で人が動く理由』は昔読んだ。「オトコだろ」だから動くのではなく、地道な指導の蓄積により、何を言おうが、動く関係性を作っている。 

また、監督車から選手への声がけは、本来的には1−1のもの。ある意味、TV局が勝手にマイクで拾って(大八木監督が叫び始めると中継陣も黙って注目させて)いるだけ、ともいえて、公式見解を発しているわけではない。

田中総長が結論として語られる、「こういうことが注目されるようになったという時代の変化」とはそのとおり。

欧米では

映画では、スーパーマンバッドマンアイアンマン等々のマンものは多い。スポーツでも、40年前はじまった過酷さがウリの競技にはアイアンマンと名付けられた。ゴールでは今でも女性アスリートに対しても、たとえば「ハルカ、アヤセー! ユーアー、アイアンマーン!」とマン称号が会場アナウンスにより付与される。日本語なら「綾瀬はるか!おまえ、漢だ!」

ドラマまんまか。

つまり、日本でも欧米でも、スポーツでの活躍に対して男性的な表現をされれてきた経緯は世界共通にある。

それを全肯定する気はなく、ただ、人類文明の傾向として事実としてこうだったよ、という話ね。

スポーツの男性偏重性

スポーツが男のものとされてきたことは、朝日の特集でも早稲田リー・トンプソン教授が触れている:

そもそも女性がマラソンを走り始めて大騒ぎになったのが1967−68年頃のこと。大八木監督は当時9−10歳だ。以後、待遇の平等を求める運動はプロ女子テニスに始まり、各所で続いている。スポーツに限らず、社会のあちこちで。

こうした経緯の中で、全体的に、放っておくと男性有利+女性不利、と傾きがちな空気感もうまれる。そして、不平等感と被害感のある女性が、男性性を強調する表現を嫌がる気持ちもわかる。

結論

ただ、客観的にみれば、

男子学生にも女子学生にも同様に求められるチャレンジに対して、男子学生なりに、チャレンジしていて、指導者が応援している

という状況に過ぎないようにも思われる。

関西学院大アメリカンフットボール部の鳥内秀晃監督の人の育て方は、「どんな男になんねん」とまとめられているし。

鳥内監督62歳で同世代。ここでも漢字の選択は男でも、意味的には漢だ。

一方で、新しい世代の指導者がわざわざ選ぶ表現でもないのはある。いわば大八木監督は伝統芸能、歌舞伎の大見得をきるようなものではないだろうか。このように:

このように:

それはそれで大切に遺しながら、新たに女性監督とか英語ベースの監督とか、多様化が進めばいいと思う。

そして、来年の箱根での大八木監督の叫びに注目したい。笑

・・・

ついでに箱根系note:


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