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有沢友好。のみらいよち/断片3
はじめに
導入
世の中には、意図的にねらって人を笑わせることができるような人もいれば、本人が意図しているわけでもないのに自然と笑いの中心に立てるような人もいる。「笑いの才能」という指標でこれらを見ると、前者は分析家タイプや努力家タイプとして分類できそうだという気がするし、後者は天才タイプといって差し支えないだろうと思う。
後天的に笑いのセンスをつかむ人と、先天的に笑いのセンスをもっている人がいて、「お笑い」というのは、もしかしたらこういった人たちの絶妙なバランスによってなりたっているのかもしれないと思ったりする。
今回は、「人と社会の関係」や「クリエイターの生存戦略」について考えてみようと思う。
前回の「断片2」では社会を構成する要素である「お金」について考えたので、今回はざっくりと「人」について考えてみたい。
確認事項
今回はすこし意地悪な話をしてしまうかもしれない。
もちろん、悪意を持ってあえて意地悪なことを言おうというつもりはない。事実や正論を述べると結果的にそうなってしまう、ということだ。
この点はあらかじめご了承いただきたい。
また、AIと人の今後を考えるにあたって、この『有沢友好。のみらいよち』では、人間がまだ「社会」を通して、なんらかのかたちで他者と相互に関係しあう状態を想定している。
人間が社会的活動や人間的活動をすべて失い、生活に必要なあらゆるものが「社会」を介さずとも自動的に与えられるような状態は考えないものとする。
そのような未来のイメージは、SF小説やSF映画などにゆずろう。たとえば、2008年に公開されたCGアニメーション映画『WALL-E』では、非常にわかりやすいかたちで、そのような未来のイメージが提示されていたように思う。
労働と平等
仮にあなたが、今年定年退職をむかえたばかりの人物だとする。
とっくにローンの返済等も終え、十分な老後のたくわえもあるとする。
もしかりに、そのような環境を手に入れたら、あなたは日々なにをして過ごすだろうか。
実をいうと、今回のわたしの一連の未来予測を裏で支える柱のひとつは、そんな素朴な疑問だ。
あらゆる人間の仕事が、機械やAIに代替されて、人間のやる仕事がなくなった状態というのは、すべての人類がいっせいに定年退職をむかえたような状態に似ている、とわたしは考えたからだ。
ただし、問題があるとすれば、まだ準備が不完全な段階でそのような「未来」が、部分的に地滑りをおこすようにして、「現代」に滑りこんできたという点だ。
日々の生活を維持するために人は「働いてお金を稼ぐ」必要があるし、社会を維持していくためには「これまでどおり」人間の労働力が必要不可欠であるが、一方で社会は「これまでほど」人手を必要としていない。
そのため、当分のあいだ人は、人間に残された仕事に、互いに競い合うようにしてしがみつかなくてはならないような状況で、生きていかなくてはならないのだ。
個人が「お金」を自分の資産として、あるていどコントロールすることを可能にしてきた労働市場というシステムが、日に日に縮小し、「お金」というものが次第に人間のコントロールの外側に移動しつつあることを感じながらも、少なくとも今後100年くらいは、人類は慣習としての市場経済をつづけざるをえないのかもしれない。
非労働市場におけるお金の稼ぎかたについては、すでに「断片2」で触れたので、ここでは割愛するけれど、逆にいえば、労働市場こそが現代の我々にとっては、どうしようもなく「日常」だったのだろうと感じる。
「仕事」を通して”社会”にコミットし、それによって得たお金を「消費」を通して再び”社会”にかえす。自らの住まう場所を、そこに定義したりもする。
そしておそらく、これまでは生まれや能力に関係なく、すべての人にそのような人生を生きるチャンスが与えられていたのだろうと思う。
いまになって思えば、それはとても幸福なことだったのだろう。
労働市場がこれまでのように機能しなくなった社会においては、すべての人間に何者かになれるチャンスが与えられることはなく、一人ひとりが自分の生まれ持った「運」のようなものと、ダイレクトに向き合わざるをえなくなるだろう。
それが、社会がもともと持っていた残酷性によるものなのか、それとも、「自分たちにとって何が日常で、何が非日常なのか」を定義できていない状態で、社会が新たなフェーズに移行することによって生じるものなのかはわからないが、しばらくのあいだ人類は、自分の努力だけではどうにもできないような理不尽と、向き合わざるをえなくなるだろうと、わたしは考えている。
「仕事」という枠組みで運用しているもの
純粋には「仕事」とはいいがたいようなもので、労働市場の仕組みの中に落とし込んで、「仕事」と同じ扱いで運用しているようなものがあるような気がする。たとえば、多くの芸術はそうだろうと思う。
特別に応援している役者やアーティストがいる場合、彼らが「仕事」で普段の表現活動をおこなっているとは、あまり考えたくはないものである。
むしろ、サブスクリプションなり、なんなりによって、彼らのことを「買い支え」しているという気持ちのほうが強い、という人は多いかもしれない。
あるいは、国や行政が便宜的な雇い主になって、「仕事にしている」ような職業もあるのではないかという気もする。
もっと深堀りできそうな領域ではあるけれど、このあたりに関しては、今回は立ち入らない。
クリエイターの生存戦略
いまは物珍しさからクリエイティブの領域にAIを持ち込もうという流れがあるけれど、どうせそのうち「飽き」がきて、下火になるだろうと個人的には楽観している。
簡単な事務作業程度ならまだしも、AIというのはブランディングに結びつかない、ということに多くの人がそのうち気づくだろうと思うからだ。
とはいえ、つくり手のことを作品の出来や、「腕」で評価するというのは、時代遅れになってしまう可能性はあるだろうとも思う。
その場合どうなるかというと、おそらくは、つくり手のことを「キャラ」で評価するような時代がやってくるのではないか、という気がする。
どれくらい先の未来になるかはわからないけれど、仕事上で知り合った相手のことを判断する際に、その人物の「能力」を持ち出すということは、いまよりもずっと少なくなるはずだ。
それは、たとえるならば、すべてのお笑い芸人が、しゃべくりの漫才やトークの腕ではなく「キャラ」で勝負しなくてはならないような世界といえるかもしれない。
あるいは、ひろゆきさんや堀江隆文さんのような、非常に高い分析能力や言語化能力のある人たちを、「物知りで、おしゃべりの得意なおじさん」というようなかたちでしか評価できないような世界ともいえるのかもしれない。
なんだか「世も末」、という気もするけれど、実はわれわれはそのような世界をすでに知っている。
なんらかの表現に携わる人々のことを、ひとまずその「能力」や「腕」については脇に置いておいて、「キャラ」で評価するというのは、まるで『笑点』のようなものではないだろうか、とわたしは思う。
ご存じの通り、笑点メンバーというのは、一人ひとりが一流の噺家であるわけだけれど、『笑点』という番組内においては、われわれは彼らを「キャラ」で評価する。
おそらく今後、何らかのかたちでクリエイティブな仕事に携わろうと考えている人は、腕や技量とは別に、自分自身の「キャラ」と、それを日常的に発信する場をあらかじめ用意しておく必要があるのかもしれない。
プチフォーマルの時代
様々な新しい技術によって人類は不可能を克服し、もはやなにもかもが可能になった状態で、「社会が再様式化」する。
人間関係やコミュニティが再定義されていくなかで、似たような価値観を持つ者同士、似たようなライフスタイルを持つ者同士が互いに引き寄せあうことで、ゆるやかな「ルールを伴ったムーブメント」や「ルールを伴った界隈」が同時多発的に発生する可能性がある。
これはあくまでも、わたしの漠然としたイメージに過ぎないのだけれど、これから我々が生きることになる時代は、「プチフォーマルの時代」と呼ぶことができるのかもしれない、とも思ったりする。
まとめと感想
以上をもって、『有沢友好。のみらいよち』を終了する。
断片1では、ざっくりと「社会」の未来について考察し、つづく断片2と断片3では社会を構成する要素の未来について考察した。
わたし自身の個人的なスタンスを述べておくと、AIに対してはかなり慎重派だ。
大学では工学部に進学した身としては、AIというのは「研究対象」としては、非常に魅力的だけれど、それを興味本位で研究室の外に持ち出す気には正直なれない。
影響する範囲が個人の日常をこえてしまうようなものを、個人の裁量で好きにするのは、どうもはばかられる。
今はほとんどの人が、この技術によって「人の働き方が変化する」と考えているようだけれど、わたしの見立てによると、その変化は個人の在り方や住まい方をこえて、社会制度や国家の体制にまでおよぶ可能性が高い。
世の中には「日本はAI先進国を目指すんだ」と息巻いている人もいるようだけれど、「そんなものは国家ではない」と思うのはわたしだけだろうか。
利潤の追求が企業戦士のつとめなので、法的な規制を設けないのであれば、合理化の名のもとに、今後ますます「社会」は縮小していくだろう。
であるならば、誰かが社会や国家を肩代わりする必要があるのではないかしら? と、わたしは個人的に思っている。
なんにせよ、ここまでおつきあい頂きありがとうございます。
わたしの記事が、なんらかのかたちであなたの生活の一助になれたのならさいわいです。
余談(主に個人的な話)
たった3回の記事だけれど、非常につかれた。
おおげさないいかたかもしれないけれど、個人的には一生分の仕事をした気分である。
わたしには、もともとライフワークにしていることがあって、高校生のころから、趣味で社会学や人文学系の本を読みはじめ、それから20年ほどかけて、少しずつ興味範囲を広げながら、「現代の日本社会の問題点」について、いままで自分なりに考察してきた。
実をいうと、今回の未来予測は、このライフワークから多くのものを流用している。
「労働市場」と「近代化」という2つのテーマを軸にして、予測全体が構成されているのは、そのためである。
個人的な問題意識からはじまり、かなり長いこと取り組んできた”課題”ではあるけれど、2023年を持っていちおうの結論がでため、当分は自分の好きなことだけをして生きていこうと考えている。
というか、すでにここ数日間は英語学習関連の書籍を読み倒して「英語漬け」の日々を送っている。
英語と中国語に関する基礎ていどの知識はすでにあって、これらのスキルを伸ばそうと数年前に大量の書籍をまとめ買いしたのだけれど、時間がなくて積んだままにしていたので、当分はこれを消化する日々をおくろうと思う。
自分のなかで決着がついた「日本社会の問題点」に関しては、おいそれと誰かに話す予定はないけれど、折を見て小出しにはするかもしれない。
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