クオリやファミリや
秋桜と書いてコスモスと読むのであれば、椿と書いてジャポニカと読んでもよさそうなものだと伝いながら疑問符を浮かべる肆廉ミハゥに返す言葉は、英国憲法のようなものだ、でよかっただろうかという疑問が、目を覚ましたばかりの豆生ノルチカの頭を重くさせた。
単に人道的な理由と惰性だけで生存と選挙権を維持している自分たちには、連中のすこやかな成長を見守る責任がある。
世の中にはこれをおろそかにして、自分たちの住む「世界」失った者達もいると聞く。
そんな不安に駆られながら、インドとパキスタンを編み込んでつくられた綿100%のカシミールを払い退けると、ノルチカは照明を呼び起こし、大きく息を吸いながら仰向けになった。
部屋に組み込まれた環境再現モジュールは、半世紀ほど昔の10月2日、午前8時30分、春日部、埼玉、日本をテーマに当時の現地の様子を、傾向と平均をもとに生成し出力する。
小鳥のさえずりや、犬の鳴き声。
自家用車や、通学バスの走行音。
近隣住民の話声や、自転車のブレーキ音。
わずかに聞こえる、そういった都市の喧騒をBGMに天井を眺めていると、自ら待機モードを解いたミハゥが、ベッド脇に立って覗きこんできた。
〈どうした、お腹の調子がわるいのか。それとも、コーヒーでも淹れるか?〉
そう伝うミハゥの顔の前に手をかざして、ノルチカはゆっくりと上体を起こす。
「おはよう」
〈おはよう〉
「トイレに行く」
〈では、コーヒーを用意しよう〉
ノルチカはベッドから這い出るとトイレに向かい、体内の余分な水分を排出する。日常の中の何でもない習慣なのだが、365分の350くらいの確率でおこなっている習慣なので、365分の15を選択すると、ミハゥは〈人体に何らかのイレギュラーが生じている〉という判断をするらしい。「調子」という言葉を「リズム」や「テンポ」に近い意味で理解している可能性があるが、人体を毎日一定のリズムを刻みながら作動する機械的なものだと理解している可能性もある。深刻なトラブルにつながる可能性は低いので、長らく放置しているが、いずれは調整する必要があるとは思う。
〈明確に秋桜をコスモスと表記する国語辞典は、ベルギー憲法のようなものだ〉
ペーパードリップの香りを感じながら、昨晩の会話ログを呼び出し、議論を再開すると、ミハゥはそのような推論を披露してみせた。
精度はイマイチだが、いまのところ辞書になんらかの権威を置く傾向はみられない。
世の中には辞書的な意味を絶対視して、日常的な言葉の使用に枠をはめようとする連中もいるが、そんな簡単なものではないだろう。言葉というのは人間の日常生活同様「活物」で、設計主義的な尺度や理性崇拝が入り込むのは困難だ。
「言語の習慣的な使用傾向を大量にとりこみながら、人間の言語習慣を再現するのが、きみたちの得意な機械学習というやつだろ?」
〈既知のデータや過去の経験をもとに推論を行うのが人間的思考だ〉
「きみは人間になりたいのかい?」
〈いや、そういうことではない〉
わずかに残された「世界」にしがみつくためにも、現在の調和と秩序を維持する必要がある。そう思いながらノルチカは、ミハゥの淹れたコーヒーをすする。
おわり。
【補足】
終盤はかけ足になって、だいぶ端折った。
少し時間をおいてから加筆・修正しようと思う。
S.I.ハヤカワの『思考と行動における言語』には、「辞書を書くということは、語の「真の意味」についての叙述を打ち立てるという仕事ではなくて~(p57)」みたいな言葉があって、元ネタはそのへん。
わたしには人間とAIとの関係性や、近年顕著な設計主義的な社会傾向にたいして明確な哲学があるが、それが背骨になっている。
あとは言葉の多義性とか、曖昧さとかを利用した創作に興味がある。
自分の好きなことや言いたいことを整理して、シンプルで分かりやすくする必要がある(課題)。
わたしの活動が、あなたの生活の一助になっているのなら、さいわいです。