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有沢友好。のみらいよち/断片1
はじめに
導入
よく耳にする言葉に「社会の歯車」というものがある。個人を消耗品のようにつかい捨てにするようで、どちらかといえばネガティブな意味合いで用いられるような言葉ではあるけれど、一方で「人々が互いに協力しあいながら社会を動かしている」という感じもして、わたし自身は、プラマイゼロでフラットな印象を抱いている。
昨今おおくの人が話題にあげるAI(Artificial Intelligence)はもちろんのこと、さらなる科学技術の発展は今後、わたしたちが社会を支えるためにおこなっている仕事のおおくを、機械に置きかえていってしまうだろう。
では、我々の住む社会は、今後具体的にどのように変化していくのだろうか。
未来にたいして興味を持っている人はおおいだろうし、未来にたいする漠然としたイメージを持っている人もおおいだろう。
わたし自身も、いちどは理系の職業を志したことがあるのも手伝って、人類とテクノロジーの未来に関しては、かなり楽観したイメージを抱いていた。
2022年の年末あたりに報道された、AI技術の急激な進歩に関するニュースを目にするまでは。
自分の持っているスキルや、これから獲得しようと予定していたスキルの多くは、おおむねAI等で代替できてしまうらしいという現実を突きつけられてしまい、わたしは自分の人生設計を見直さなくてはならなくなってしまった。
同時にわたしはこのとき、いくらか遠回りになってしまってもよいから、より高い解像度での未来予測をおこなおうと心に決めた。
場当たり的な対処法を考えることもできたかもしれないが、時代の変化にあわせて生き方を変えるというような生き方を、一生つづけられるとは思えなかったからだ。
これから書くことは、去年(2023年)1年間を通して、自分の持っている知識を総動員して今後の社会変化について考えたことのまとめである。
確認事項
あらかじめ断わっておかなくてはならないことがいくつかある。
まずもって重要なのは、素人の趣味にすぎないということだ。学者でも専門家でもない一般人が、歴史や人類学、社会学や人文学系の本をつまみ食いして得たていどの知識で何かを語ろうとしているにすぎないので、見当違いや的外れの類もおおいことと思う。
もうひとつは、わたしが「社会」と「市場」を、それぞれ別々の役割を担うものとして、明確に切り分けて考えているということだ。
厳密にはこれらは不可分だと思うのだけれど、物事を単純化して考えるために便宜的に用いた思考法が悪癖として染みついてしまっているのだ。
カール・ポランニーの影響だ、と言い張れればよかったのだろうけれど、残念ながら『経済の文明史』は数年前に流し読みしたていどなので、やっぱり悪癖というほかない。
そういった点をご理解されたうえでつきあって頂けるとさいわいである。
謝罪
それと、あやまっておかなくてはならないことがある。
まずは、記事の投稿が遅れてしまったことについてである。
この『有沢友好。のみらいよち』は、予定では2024年の1月中旬までに投稿できる予定であった。
わたしは普段からメモ帳を持ち歩いていて、思ったことや気づいたことをいつでもメモできるようにしているのだけれど、年末から年始にかけて、この記事に向けて1年分の思考を整理していたところ、「メモをまとめるためのメモ」で机のまわりが付箋だらけになってしまい、次第に現実逃避するようになってしまっていた。
わたしの記事を待ち望んでいるというような、もの好きな方はいないだろうけれど、この点は申し訳なく思っている。
理詰めの一本道でたどりついた結論というわけではなく、気になるいくつかのトピックをあらかじめ頭の中に寝かせておき、普段の生活のなかではっとした瞬間にすぐにメモをし、あとからそれに多少の論理的な肉付けを行うというような形式でのメモが大半であるため、あらためてそれを一本道で筋立ててまとめあげるという作業は、思っていた以上に体力を消耗した。
ひとつの記事に言いたいことを集約する、ということはできないと判断し、いくつかの小テーマに分けて記事を断片化することにした。この点も、かさねて謝罪申し上げたい。
今回の記事の役割
第1号となるこの記事の役割は、「社会」という大きなざっくりとしたテーマで、今後複数回に分けて投稿するであろう記事のアウトラインを引くことである。
おおくの人が気になっているであろう、「お金」や「クリエイターの生存戦略」等については、いずれ別の記事でとりあつかうことにする。
本題
一般的な未来予測
そろそろ本題にはいらなければ、と思うのだけれど、そのまえに、あなたはこの1年間でどのような未来予測を見聞きしてきただろうか。
2023年は、たくさんの人が未来についての予測を立てていたように思うし、未来予測という形式をとっていなくとも、たくさんの人が自然と未来について語りたくなるような年であったように思う。
そういった、未来予測の範疇に収まるような話題をすべて把握しているわけではないのだけれど、わたしが見聞きした範囲でいうと、そのほとんどはおおむね以下の2つのトピックに大別できそうだ、という印象をうけた。
いかに収入を維持するか。
いかに収入を増やすか。
もちろん、「AIを用いて」というワードが枕詞につくのだけれど、そういった未来予測にたいしてわたしは、違和感とまではいかなくとも、物足りなさのようなものを感じてしまっていた。
この1年間でわたしが目にした、テクノロジー絡みの未来予測はすべて、「働いてお金を稼いで、その稼いだお金を自らの資産とし、自分の好きにする」というライフスタイルのモデルにのっとっており、このライフスタイルそのものは変化しない、という前提に立っている。
しかし、あらためて冷静になって考えてみると、我々がこのように興味本位で「今後の社会の変化」について語っているときに、なんとなく、その場のノリのようにして主題としているこの「社会」というのは、人類の営みを支える、人類にとって普遍的な「つながり」や「関わり合い」のことではなく、もっと別の何かなのだろうという気がする。
わたしが思うに、おおくの未来予測で語られているこの「社会」というのは、おそらく近代以降に大きく拡大した「労働市場」のことなのではないだろうか。
少し浮いた視野で
自分が所属しているコミュニティや文脈とはまったく異なる地域や時代について想像するとき、我々はついつい、現在の自分のライフスタイルや社会規範を半ば当然のものとして基準においてしまいがちだけれど、人類が、現代の我々のような「労働と消費」を社会生活の軸としたライフスタイルを確立したのは、たかだかここ100年~200年くらいでのことだ。
たとえば、学校というのは、それまでは一部の特権的な階級のこどもだけが通う場所であったし(主にヨーロッパでは)、そもそも「こども」という概念が極めて現代的なものだ。
一家の息子や娘は、その「家」の所有物であり、社会や市場に「送り出す」ようにはなっていなかったはずだ。
そのような社会に暮らす人々の人生観や価値観というのは、現代の我々にはなかなか想像しづらい。
産業革命というよりは
「ブルーカラーにつづき、これからはホワイトカラーが産業革命にさらされる」というフレーズは比較的はやい段階から登場していて、わたしはこれを聞いてすぐに「それはつまり、人間が労働から解放されることを意味するのではないか」というように考えたのだけれど、あらためて1年間じっくり考えてみると、そのような楽観的な表現は適さないという考えに至った。
予測の困難さこそが本質
労働市場の外側でお金がどう動くかというのは、いまはひとまず横に置いておこう。
この「みらいよち」を書くにあたって、労働市場の外側で個人はどのようにお金を稼ぐのだろうかということを、自分なりにいろいろと考えてはみたのだけれど、実はまったく思い浮かばなかった。
もとより、わたしがお金を苦手分野としているというのもあるのだろうけれど、「個人の時間に定価がつかない」ような場所で人生設計をしよう、という行為自体に無理があるのかもしれないと思った。
今はまだアウトラインを引いているところなので、これを結論にするつもりはないけれど、わたしはこの人生設計の難しさこそが、もしかしたら今後の社会変化の本質なのかもしれないと感じた。
名をつけて姿をあたえる
2018年に亡くなった評論家の西部邁氏が、現代社会を批判する際に好んでよくつかっていた表現に「分かりやすいモデル(model)が流行(mode)するのが現代(moderne)だ」というものがある。
しかし、これから先の未来に我々人類が経験することになるのは、「社会の非モダン化」なのかもしれない、とわたしは感じた。
同じような表現になるかもしれないけれど、大橋崇行著『ライトノベルから見た少女/少年小説史』には、江戸から明治にかけての小説における日本語の表現様式の変化をさして「日本語の再様式化」という表現を用いている。
この表現を借りるならば、「ライフスタイルの再様式化」ともいえるだろう。
我々が”社会”と言いならわしているものが、厳密には労働市場であるという点に重きをおくならば「労働市場の縮小」ともいえるかもしれない。
テクノロジーの進歩というのは、みるみるうちに我々の生活をより便利な方向へと引き上げていき、我々はいまそれを享受しているわけだけれど、ふり返ってみると、おそらくこの変化は「労働市場の縮小」と同時進行であったといえるのかもしれない。
まとめ
まとめると、現代の我々は「自分の時間と労働に定価がつく」ようなシステムのなかで生きているため、人生設計があるていど容易であるが、今後はさらなる労働市場の縮小に伴い、将来の自分の収入に対して見通しがつかなくなるようになるというのが、今回の記事の結論である。
余談
どちらかといえば、「みらいよち」というより、現状の確認のようになってしまった。
多くの人が直感的に感じているものを言語化しただけに過ぎず、普通の人の歩調に、わたしは人より手間暇かけてようやく追いついただけなのだろう。
とまれ、これで机のまわりにあふれかえった大量のメモのうち、「社会」というテーマでくくれるものは、片づけることができそうだ。
文章の流れの中に組み込めず端折ったものに関しては、最後に補足というかたちで付け足そうと思う。
今回はあくまでも、今後投稿予定の断片化させた複数の「みらいよち」のアウトラインを引くことが目的なので、もってまわった割にはずいぶんと薄味になったように思う。
予定
つづく記事をどのようなかたちにするのか、また何回に分割するのかは、今のところ未定だけれど、予定としては「人とお金」、「お金の社会的位置づけ」、「人と社会」、「クリエイターの生存戦略」といった小テーマを用意できそうだと考えている。
内容としては、今回の記事で確認したようなシチュエーションのなかで、実際に人々が生活するようになった場合のシミュレーションといった側面をもつだろうという気がする。
できれば、1カ月以内につづきを投稿したいと思ってはいるけれど、冬のうちにやっておきたいこともおおく、春に向けての畑の準備などもあったりするので、気長に待っていただくとありがたい。
もしかしたら、間で別の記事を2、3投稿することもあるかもしれない。
ひとまずは、このあたりで今回の『有沢友好。のみらいよち』を、〆ようと思う。
なんらかのかたちで、あなたの生活の一助になれたのならさいわいです。
ここまでおつきあい頂き、ありがとうございます。
以下補足
社会について
あなたは「社会」という言葉に対しどのようなイメージを持っているだろうか。また、この言葉をどのように自分の中で定義づけしているだろうか。
柳父章著『翻訳語成立事情』によると、この言葉は英語のsocietyの翻訳語として明治期に生まれたものだという。
詳しくは実際にこの本を手にとっていただきたいと思うのだけれど、ようは日本人にとって「社会」という言葉自体が、なじみの薄いものであるということだ。
あくまでもわたし個人の感覚のうえでの話にはなるけれど、「社会」というのは具体的な制度や仕組みを伴うソリッドなものというイメージがあり、似たような領域を指し示す「世間」という言葉が、うつろいやすく形の定まらないものというイメージを持つのとは非常に対照的だと感じる。
個人の「財」をあつめ再分配するための「まつり」のイメージを無意識的に「社会」に転用しているのかもしれない。
ちなみにわたしは、定義とまではいかなくとも、いまのところ「社会」を次のように表現可能だと考えている。
生存戦略の相互補強関係。
日常の再生産体制。
変に格好をつけた小難しい表現ではあるけれど、「人と人とが互いに時間と労力を融通しあえる状態」を示せれば、表現の仕方はなんでもかまわない。
しかし、実際に社会に出て働いてみると、必ずしもそうはなっていない、うということに気付かされる。少なくともこのような認識で生きていると、自分ひとりが非常に損をするということがよくある。
人間関係を上下関係でしか判断できない、という変わった人もいて、そういう人にはうかつに下から近づかないほうがよいという場合もある。
きっと「社会」というのは、わたしの力量ではとうてい言語化できないような深淵を内包しているにちがいない。
その他
プロダクト、サービス、コンテンツといった、なんらかの「商品」を生み出すためのプロセスも、いまではずいぶんと自動化が進んでしまった。
もしかしたら、「商品」を生み出すために人が働くということは、いずれなくなるのかもしれない。
それに、「商品」を買い求めるために外出するということも、もしかしたらなくなり、個人が自己完結型の生活を送る未来がやってくるのかもしれない。
そう考えると、「市場-(商品+労働)」といった式が頭に浮かぶが、思いつきの域をでない。
結婚し、家庭をつくり、子供を学校に通わせ、その子供もいずれは社会人になる。なんとなく生きているとなかなか気づけないけれど、いつも通りの当たり前の日常を再生産するために、人類は非常に大きな労力を支払っている。
もしも仮に、社会が人間の営みを離れて自動的に再生産されるのであれば、家庭や学校はどうなってしまうのだろうか。
なんとなく「社会-(家庭+学校)」という式が頭に浮かぶが、いまはなんともいえない。
はたして、そんなものを「社会」と呼べるのか、という気がしなくもない。
家庭内に目を向けると、「家事」というのは昔は非常に手間のかかるものであったように思う。料理をつくるにも、火をおこすところからはじめなくてはならなかった時代からすると、今ではずいぶんと便利な世の中になったものだと思う。
このあたりの変化に関しては、梅棹忠夫氏の著作物を集めた『女と文明』を読んでいただきたい。有名な『文明の生態史観』や『情報の文明学』にひけをとらないくらい、非常に刺激的な内容になっていると思う。
以上。
ここまでおつきあい頂き、ほんとうにありがとうございます。
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