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カンザキイオリが好きだと叫びたい

カンザキイオリが好きだ。
ファンクラブ向けに送られる独特な文章、文字通り命を削って届けられる音楽、冬の凍てつくような空気で語られる小説、ライブで届けられる魂の歌。

全部全部好きなんだ。

25時の情熱を聞いたとき、もともと曲のモチーフとなった宵崎奏のことが好きなのもあって、私は優しさに溢れたそのメロディに泣いてしまった。温かかった。大人の自分が少女だった私に語りかけるような構成、未来への不安と願いを込められた歌。大人になっても25時に、あの4人がナイトコードで集まる日が来たらいいなと祈ってしまう歌詞。すべてがカンザキイオリで、そして紛れもなく宵崎奏への愛が込められた歌だった。ずっと書き下ろしを待っていたからこそ、そして最推しの宵崎奏バナーに書き下ろされたからこそ、聞いていて気持ちがいっぱい溢れてしまって涙が止まらない1曲。また、カンザキさんへの大好きが更新されてしまった瞬間だった。

私がカンザキイオリに出会ったのは18の頃。命に嫌われているに出会って、そこからカンザキイオリの楽曲とともに生きてきたのだが、ワンマンライブ「別れなど、少年少女に恐れなし」までのことはpixivに既に投稿済なので割愛する。

カンザキイオリには春が似合う。冬が似合う。
私は春がくるたび、「桜の子」を思い出す。「地獄に落ちる」を思い出す。桜の子は明るくてポップでキャッチーで、とても好きだ。悲しさや切なさ、別れ、寂しさ、大人になってしまった悲しみ、マイナスよりの歌詞なのに紡がれるメロディーは温かくて。まさに春模様みたいで、桜と共に笑っている風景を思い描く。

ああ、そうだ。カンザキイオリは夏も似合う。
初夏の「人生はコメディ」
真夏の「死ぬとき死ねばいい」
夏の終わりの「あの夏が飽和する。」
あの夏三部作がとにかく私は好きなのである。
ライブで死ぬとき死ねばいいのコーラスを歌うのが夢だった。別れなど、少年少女に恐れなしのライブで夢は叶った。これほど嬉しいものはない。あの夏が飽和する。は、カンザキイオリと花譜ちゃん歌唱ver.が特にお気に入りで、カンザキさんすごい歌上手くなったよなあと感慨深くなる。間奏の花譜ちゃんとカンザキさんの叫びに毎回泣きそうになる。

ああ、今ちょっと物思いにふけたいなとか、少しBADに入りたいなという時。あるいはしんどさをより深いしんどさで上書きしたいとき、カンザキイオリの音楽を爆音で聞く。

そう、まさに今。私はカンザキイオリを聞いている。

またライブに行きたいなあ。
サイン会行きたかったなあ。

私がカンザキイオリさんの「公表」を知ったのは、何の気なしに読んだファンクラブのメールの更新でだった。タイトルが今ぱっと思い出せないんだけど、「人間じゃない癖に」だったかな?に綴られるカンザキさんからのメッセージ。

2.3行読んで、今回はゲイのキャラの視点の物語かと思った。小説形式の更新もよくあるから、今回もそういった仮想の物語だったと思ったのである。そして読み進めて気づく。カンザキイオリ自身の話なのだと。

正直すっっっごくびっくりした。
私はカンザキイオリが好きだ。
だけどそういったセクシャルには否定的な田舎で育ってきた。同性の友達にセクシャルを打ち明けられたとき、距離を取ってしまった側の人間だ。
カンザキイオリが大好きだし、びっくりしたけれど不思議と受け入れられた。でもさあ、それって「好きな人のセクシャルを肯定したい」「女の私は同性のセクシャルの公表は受け入れられないけど男性のセクシャルの公表は受け入れられる」っていう醜い思考の産物じゃないか!こんな私が好きって言って、カンザキイオリのファンで居続けていいんだろうかとすごく悩んだ。

結局、「それでも応援続けていいんだよ、ファンでいていいんだよ」の言葉を、第三者からの許しを待っているだけだというのは分かっていた。

だからこそ、私は我儘に傲慢に醜く、カンザキイオリを好きでいる。

本当はカンザキさんに結婚してほしかった。子供のいる家庭で、普通の幸せを手にして欲しかった。でもさ、その普通も今変わってきてるんだよね。

どうか、カンザキイオリがカンザキイオリとして人生を豊かに過ごせますように。カンザキさんは救いたいって言ってくれるし、自分を救えるのは自分だけだとも歌うし、救われましたなんて馬鹿言ってんじゃねえよって歌詞を書くけどさ。私は自由に生きていて欲しいよ。自由にのびのびと、創作という答えのないものに悩みながら音楽を作り続けて欲しいよ。

いつかまた、あなたに救われましたと、今元気に生きてますと伝えられる日がきたらいいなあ。

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