
再開館記念「不在」 ―トゥールーズ=ロートレックとソフィ・カル について感想
三菱一号館で「再開館記念「不在」 ―トゥールーズ=ロートレックとソフィ・カル」がやっていたので見に行った。
この展示は三菱一号館初の現代アーティストとの協働が行われた展示で、楽しかったので実際に見にいった感想を余談を含め残しておく。
書き終えてから、私はこの展示を結構楽しんでたんだなというのと、ロートレックとソフィ・カルという組み合わせに疑問を持ちつつ割と肯定的に見たので、肯定的に見た人間の感想の参考としてよかったら読んでみてください。
再会館記念
三菱一号館は2023年4月から2024年の11月までの休館していたらしく、約2年ぶりの開館だそう。
2020年の開館10周年記念展として企画された「1894 Visions ルドン、ロートレック」の開催に際し、現代フランスを代表するアーティストのソフィ・カル(1953- )氏を招聘する予定でした。しかし、世界的な新型コロナウイルス感染症の流行により、ソフィ・カル氏は来日を見送らざるをえず、現代アーティストとの協働というプロジェクトは再開館後に持ち越されることになりました。
本展は延期になった企画が5年越しで実現したもので、実現できてよかったよ…の気持ち。
ちなみに展示が持ち越しになったときソフィ・カルはめちゃくちゃ不安だったらしいが、美術館側としては閉館期があったことで企画の練り直しができてよかったらしい。(カルの不安は企画が実現する前に自分は死ぬんじゃないかというもの。)
私の前提知識は、ソフィ・カルについては不勉強でほとんど知らず、ロートレックは何度か三菱一号館で見たことがある。初めて一号館に行った中学生の私は、ロートレックの絵や字体の雰囲気を真似して「ゴミを捨てよう」というミニポスターを描いて部屋の壁に貼っていました。今見ると全然似てないし、部屋の環境は改善されなかった。
美術館と現代アーティストの協働
当館のコレクションそして展覧会活動の核をなすアンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック(1864-1901)の作品を改めて展示し、そこにソフィ・カル氏を招聘し協働することで、当館の美術館活動に新たな視点を取り込み、今後の発展に繋げていくことを目指します。
結果的にいうと、アーティストを呼ぶことで当館の美術館活動に新たな視点を取り込む、というのは成功していると思った。
協働、と言われると何をどこまでなのかがわからないけれど、美術館側が全てロートレックとカルの展示作品を指定したのではなくて、カルとのやりとりの上で実現した展示なのだと思う。
しかし多くの人が思ったことだと思うけど、なぜロートレックとソフィ・カルの組み合わせ?と疑問である。し、そこの説明はなあまりなされていない。
不在
展示タイトルの不在はカルが設定したテーマ。どういう経緯で不在になったのかはわからないが、ロートレックとカルの共通点としてこのテーマがあるようには思えない。互いが互いについて言及することはなかったし、2者の展示スペースがはっきり分かれていた。
展示構成は前半がロートレック(途中カルの『海を見る』が展示される部屋を挟む)、後半がカル、となっていた。
ロートレックの不在
Iロートレックをめぐる「存在」と「不在」
II「反復」による強調 ブリュアンのマフラーとアヴリルの帽子
III「不在」と「存在」の可視化:ポスターとギルベールの黒い長手袋
IV色彩の「不在」と線描の「存在」
V形態の「不在」
VIテキストの「不在」
女性の「存在」と男性の「不在」
6章にわたって展示されるロートレックの作品は不在を軸に紹介される。カルが提示した不在に合わせてロートレックを読み解くようにキャプションボードと作品が用意されていた。ロートレックを不在と結びつける文章は無理やりにに感じたが、最終的にそんなことはどうでも良くなった。
不在というテーマがロートレックの作品を語る上で重要なものであるという実感はなかった。けれど、不在をキーワードにすることでロートレックの作品について多視点(主題、モチーフの選択、その時代におけるロートレックの受容、色や線などの形態的特徴、制作態度(?)など)でみることができた。
ソフィ・カルの不在
《海を見る》Voir la mer
《自伝》Autobiographies
ソフィ・カルの《グラン・ブーケ》Grand Bouquet
《あなたには何が見えますか》Que voyez-vous?
《なぜなら》Parce que
《監禁されたピカソ》Les Picasso confinés
確かこの順番だったはず。
展示についていうと、ロートレックのときはキャプションボードに「これらはこういう点で不在と言えます。」ということが書いてあって、それは不在に限定した作品の見方の提示であった。
対してソフィカルのボードはほとんど作品説明で、不在がどうのこうの…という話はなかった。前置きはいいから作品を見よ!というくらいなくて、だからこそ自由に鑑賞ができた。
(以下作品についての感想なのでまとめまで飛ばしてください)
作品の話をすると、カルは言葉のつよい人で、写真(額に入っていたり、謎の木箱に入っていたりする)とテキストからなる作品では、カルのプライベートなテキストは心がぎゅっとなるくらい強く残る内容だった。
私はプライベートな語りがブログや本になったものは好きで、それが作品だとつまらないと感じる方ではあるんだけど、そうはならなかった。
カルのプライベートな語りは「ソフィ・カルはアーティストではあるけど、ただのひとりの女性である。」ということを強く不思議なものとして感じさせた。有名アーティストの作品が海を渡って日本までくるということは何もおかしなことではないが、ひとりの女性の人生の憂鬱や悲しみが海を渡り、見知らぬ人々に見つめられていると思うとおかしくて、そんなおかしな世界に生きていてよかったと思った。語りのプライベートさと身近な人の喪失という普遍性が絶妙なバランスで、読んでいて親近感を感じたり、そうでなかったり、距離感が定まらない体験が不思議な印象をもたらすのだと思う。

(てかこれ影へんだよね、今気づいた)

『海を見る』も印象深かった。カルの作品の登場人物はカル本人でも、そうでなくてもよいのだろう。見知らぬ人であるのにストーリーを感じさせ、鑑賞者に共感、没入させてしまうことが上記の作品同様面白い。『海を見る』は初めて海を見た人のポートレート映像が2×3の6つの画面で再生される作品だが、貧困であるから海を見たことがないという背景を知った上で鑑賞すると、彼らの表情に非常に勝手に彼らの人生を想像してしまう。映像はただ海を見ている人を映しているだけなのに。
あとカルは個人的な作品も作れるし、『グラン・ブーケ』や『なぜなら』のような他人と積極的に関わる作品も作れてすごいなと思った。
まとめ
今回の展示は不在というタイトルのもと、ロートレックとソフィ・カルの二人展だったが、二人の作品は展示スペースによって物理的に分かれていて、個人プレーの展示だった。
前半のロートレックは、不在をキーワードに展示構成されていた。対照的な展示として作家の個人史を追うタイプの展示(回顧展など)があるが、それと比べて比較的ライトに多視点で作品を鑑賞できた。個人史が軸の展示はもちろん好きなのだが、(なんか勇気づけられる、膨大な情報量により作家のことをひととおり知れる)そういう展示はみるときに気力がいるし、仕事量の多さに圧倒され情報で頭がごちゃごちゃになるので、それと比べて気軽に作家、作品について知れる点が良い。
後半のソフィ・カルは、前半と対象的に不在という展覧会テーマとの関連性についてはテキストであまり示されず、自由に作品を見ることができた。展覧会テーマを決めたのはカルなのでそりゃそうではあるけれど、カルの出品作品に不在の要素があるので違和感はなく鑑賞できた。
足を運ぶ前から、なぜロートレックとソフィ・カルなのかと疑問だった。結局そこの理由づけが不明確だったことについては否定的な意見が多いんじゃないかと勝手に想像している。ロートレックである理由があるのではなくて、多く所蔵しているから選ばれたのだと思ってしまったし、ソフィ・カル呼んだ理由は現代アーティスト呼びたい→ロートレックと同じフランスだから(?)以上のことがわからなかった。
やりたかったことはロートレックとソフィ・カルのコラボではなくて、三菱一号館とソフィ・カルのコラボだったのではと思う。2名の作家を結びつける必要性はなくて、でも美術館に現代アーティストを呼ぶことで、所蔵作品をキュレーションする際の視点を得られる。(美術館側が得をしてる感ある)
ロートレックを不在で語るのは無理やりに感じたけれど、それでも展示として楽しかったので、私としては楽しめた展示でした。
あとロートレック目当ての人とソフィ・カル目当ての人、どちらの層も呼び込める点でもいいなと思った。