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【映画の話】「LAND」—スマホを捨てたくなったときに—
どうしても、一人になりたいときがある。
なにもかもに疲れてしまって、仕事も、友人関係もすべてを放り出したい。
誰にも会いたくない。
放っておいてほしい。
こういう波がたまに襲ってくるのだけれど、そんなときにこの映画がそばにあればいいと思う。
主人公のエディはとある事件をきっかけに、すべてに絶望してしまう。
もう誰にも会いたくない、人と関わりたくないと思った彼女は、大自然の中で一人孤独に生きる道を選ぶ。
美しい大自然に囲まれて、心の平穏を取り戻せるかのように思えたが、自然の驚異の中で、素人同然の彼女が一人で暮らすのは困難だった。
狩りはうまくいかず、やがて食料も尽き、飢えて死にそうになってしまう。
そんなとき、たまたま近くを通りかかったミゲルに助けられる。ミゲルはその後も何度もエディのもとへ足を運び、狩りの仕方や、自然の中で生きる心得を教え始める。
はじめは疎ましく思っていたエディも、そんなミゲルとのやりとりをしていく中で、他者との心の交流を取り戻していく。
映画の冒頭で、スマホを捨てるシーンがある。
主人公は、画面に映った友人の写真をみて、一瞬躊躇するのだけれど、結局スマホをゴミ箱にすててしまい、大自然のなかへと足を踏み出していく。
以前、スマホを川に捨てる場面からスタートする小説を書こうと試みたことがある。結局完成しなかったけれど、この冒頭のシーンを見たときには、これだ!という感覚になった。
誰もが一度は捨てたくなったことがあるのではないだろうか。スマホ。
たまに心底うんざりさせられるのだ。
いろんな人から連絡がきたり、ニュースの更新の通知がきたり、家賃引き落としのメールがきたり、いつか登録してしまったメルマガがきたり。
そうやって溜まっていく情報をいざ開こうと思うと、とても憂鬱になる。
大量の通知。
それを見るたびに、世の中からなんだか急かされているような気がして、もう少し自分のペースでやっていきたいのになあと思う。
普段はまあそれでもなんとか情報の整理をやっていくのだけれど、疲れているときなんかは本当につらい。
そういうときには、スマホを川に捨てる場面を思いついて、小説なんか書きたくなってしまうのだ。
スマホを捨てるシーンというのは、それだけでなんだか無性にスカッとする。
スマホの話はこれくらいにしておいて、大自然というのはやはり美しい。
田舎で一人暮らしする人のYoutubeをよくみるけれど、どうしてもそういう生活に憧れがある。
いつかやってみたいとも思う。
でも、想像の中でなら、良いところばかりピックアップして妄想していればいいので楽しいけれど、実際的な厳しさというところも考えなければならない。
とにかく何をやっても主人公の生活はうまくいかない。
狩りはできない、薪も割れない、野菜を育てようとしてもだめ。
明かりもないし、当然暖房もないし、水も自分で汲んでこなければならない。
クマとかも現れる。
このシーンは怖い。
主人公は物置にかくれてなんとかやりすごすのだけれど、自分の住処がクマに荒らされるところを目撃する・・・。
コンクリートの壁があって、風呂、トイレ、水道、エアコン完備の個人要塞に慣れきってしまった身としては、いくら憧れがあるといっても、ここまで極端な生活をするのはたぶん無理なんだろうな、と思う。
あらすじに書いたとおり、限界に達した主人公は、ミゲルという男に助けられる。そして、ミゲルとのやりとりを通じて、他者とのつながりを取り戻していく、という話につながる。
もちろんこういうストーリーは感動するのだけれど、違う展開もありだと思う。
それは、最終的に、すべてを放り出して逃げてしまったっていいじゃないか、ということ。
人生は人との交流をすることで本当に豊かになるのか。
それが一番なのか。
どうしてもこういう風に思ってしまうのだ。
どんな道を選んだとしても、最終的には誰かのいるところへ戻ってきて、つながりを持ちながら落ち着いて暮らすというストーリーは多いけれども、逃げるという選択肢をとることがあってもいいと思うのだ。
主人公が大自然の中で孤独に生きる道を選んで、人間関係から逃げ切ってしまう道もある。
主人公はたまたまミゲルに出会えたけれど、そういう人が現れない可能性もある。
人間関係を築かなければという考えが頭の片隅にあると、どうしてもそれに引っ張られて、自分に合っていない道を選択してしまうこともある。
すべてから逃げてしまうという選択肢があることを、頭の片隅に置いておきたい。