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【良きサマリア人】助けてあげるから助けられる可能性へ

子供の時このお話を教会で聞いた時、「サマリア人みたいに、人に親切で優しい行動をしなきゃ」と思った。

大人になって、「ユダヤ社会」について知ると、違うメッセージが見えてきた。

私は人を助けようとしていた。でもこれは、「人に本当に助けられることはどういうことか、を知る」メッセージだと言うことを知った。

良きサマリア人とは:典型的ないい人?

ルカ10章25節から、有名な良きサマリア人の話が載っている。

キリスト教の宣伝や宣教がしたいわけではないので、リンクは載せない。*ググればいくらでも聖書の本文や概要は出てくる(Wikipedia英語版に載っている)

当時のユダヤ社会でマジョリティだった律法学者が、(マイノリティであった)イエスキリストに「先生」と呼び、「永遠の命を得るためにはどうすればいいか」と聞く。イエスは、「法律にはなんと書いてあるのか」と聞く。律法学者は、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい」と答えた。

イエスは、その通りだと言って「そのようにしなさい」と伝えた。すると、律法学者は「では隣人とは誰ですか?」と聞いて、イエスが話すたとえ話が「良きサマリア人」と呼ばれる寓話。

ある人(ユダヤ人)が道中追剥に合い、さらにフルボッコ(半殺し)にされてしまった。一人の祭司がそこを通る時、フルボッコされた人を見て、道の反対側に避けてそのまま通り過ぎた。さらに、一人のレビ人が通ろうとしたとき、同じように無視してそのまま通り過ぎた。最後に、サマリア人が通った。そのサマリア人はフルボッコされた人を可哀そうだと思いすぐに駆け寄って、ワインとオイルで傷を手当した。そのまま自分のロバに乗せて宿まで運び、宿の人にはこの人が治るまでここで休ませてあげてください、と言って、宿代まで払った(足りない分は帰りに支払うからという言伝まで宿の人にした)。

そしてイエスは言った。「この三人の中で誰が隣人か」と。

律法学者は最後の憐みを掛けた者がそうです、と答えた。するとイエスは、「ではそのように、あなたも行いなさい」と言ってこの話は終わる。

私にとってのこのお話の意味:可哀そうな人を助けてあげるモチベーション

私は、怪我をしている人、困っている人に一生懸命優しくしようとした。これはこれで、良い態度で子供時代を送ったと思う。アメリカに住んでいる時にも、教会で週2回ホームレスの方々に、Soup Kitchenという食事を振舞う行事に参加していた。

これは、2020年の今でも全米の教会で行われているし、今後も行われていくと思う。キリスト教がいい、とかすごい、という話をしたいわけではなく、純粋にこうした教会の具体的な活動が、社会インフラとして強い貧困対策として機能している。掛値なしに、教会で説教をするだけではなく、社会貧困のために、具体的に長年行動しているところは素晴らしいと思う。

1990年代当時、こうした日中の活動に参加できるのは、ご婦人が中心。一方、(私が参加していた間)Soup Kitchenにやって来るホームレスの方々は、特に私が住んでいたのが南部ということもあり、黒人の男性が100%を占めていた。

私は彼らから、多くの嫌がらせをされたことがある。きっと、彼らも「若い男」であるのに、「ご婦人」や「子供」たちに哀れまれたことが、プライドに障ったのだと思う。

隅っこで泣いていると、ご婦人の方々が来て、慰めながら「良きサマリア人を思い出すのよ」と言われた。

なので、私にとって「良きサマリア人」は「可哀そうな人を助けてあげる」モチベーションとなるお話だった。

コンテクストの重要性:ユダヤ社会におけるこのお話の意味

大人になり、ユダヤ社会について勉強すると、面白いことに気付いた。

まず「律法学者」。これは、当時のユダヤ教社会でトーラーに基づいた、社会や政治を担保するための法を整備する人達のこと。要は、「政治家先生」だ。その先生が、「イエス」に「先生」と呼んでいるのは、完全に皮肉であり、馬鹿にするために呼んだ言葉になる。

そして、お話に出てくる「司祭」は、ユダヤ教の司祭。レビ人は、ユダヤ社会にとって、ユダヤ人の中でも神に選ばれた種族の人達を指す(旧約聖書のレビ記はこのレビ人の家系について記述したもの)。要は、当時ユダヤ社会における「選民集団」だ。

そしてサマリア人。中世から近代にかけては、語られる歴史の視点が「欧州」に移るので、ユダヤ人が「ディアスポラ(拡散された人)」「差別された人」というイメージが強いが、当時のユダヤ社会では、それはむしろ「サマリア人」だった。ユダヤ人の後にエルサレムに移民してきており、聖書の他の箇所では、同じ井戸で水を汲むサマリア人に差別をするユダヤ人の記述もある。要は、ユダヤ社会の超マイノリティの人になるのだ。

そして最後に追剥されたユダヤ人。日本人と中国人と韓国人もそうだと思うが、特に似ている肌色の人・同じ体形の人・一重の人・同じ年齢の人を、一人ずつピックアップして、全員同じ髪型にして、黙って無表情でいてもらい、全裸になってもらった場合、見分けることがことができるだろうか。私は少なくともできないと思う。これと同じで、サマリア人とユダヤ人は遺伝生物学的には、セム系に該当し、外見だけでは全く見分けが付かなかったという。

こうした見分けの「区別」をするために、当時役立ったのが、「服」だった。ユダヤ人の服。ユダヤ人の持ち物。ユダヤ人の馬。だが、冒頭にあるように、「追剥」されてしまい全て服も持ち物も馬も奪われた。従って、フルボッコで全裸で倒れている場合、司祭のお偉いさんでも、レビ人という「神に選ばれた」高級な人であっても、その人が「ユダヤ人かどうか」は、判断できなかった。

この話は、馬鹿にされているイエスが、「あなた(社会の頂点にいる人)は、このサマリア人(社会の底辺の人)のように、謙虚に神の教えを実践しなさい」と、教条主義に溺れて批判するだけの律法学者を、諭している物語なのだ。

マジョリティであるユダヤ律法学者(先生)が、大工(貧しい職業)の息子で、「私、神様の子供なんです」宣言している人・なのに人民に人気がある人を「おちょくる」目的で近づいたが、逆に、諭される、というシナリオ。

私は、子供の時、このお話の表面的なところだけを見ていた。特にユダヤ社会に造詣がないことから、「ユダヤ社会の文脈」を無視していたが、ここにこそ「理解の鍵」があった。

文脈を応用する:良きアジア人にも置き換えらえる

「ユダヤ」とか、「サマリア」とか、「レビ」とか、「律法学者」と言われると、どこか遠い世界の「キリスト教」とか「中東」のお話になる。

でも、これは日本人にも置き換えられるお話だと思う。

綺麗な身なりの、きちんとした日本人のとある人が、人気のない道を歩いていて、フルボッコにされて、追剥に合い、全裸にされた。そこを神道の神主が一人で通った。彼は、普段だったら助けるが、一人だったし、人気がない道だったし、おつきの者もいない。血だらけっぽいけど、まだ生きているし、用事があるから、ごめんなさい!と思ってそのまま通り過ぎた。

そこに、仏教のお坊さんが一人でやってきた。彼は、この血だらけで倒れているのが、あまりに嘘っぽいので、捏造・やらせなのかもしれない、と思い、道の反対側に移ってそのままいなくなった。

その時、そこを中国人か韓国人のような人が通った。彼は、必死にフルボッコされた人を手当して、自分のロバに乗せて宿まで運び、宿代を払って、看病するよう宿の人にお願いした。宿代が足りなければ帰りに払います、とまで言ってケアをした。

私は、決してここで、「神主」さんや「お坊さん」を批判したいわけではない。神主さんとお坊さんを入れたのは、彼らが、日本社会で最も広く「尊敬を受けていそうな人たち」だからだ。そして、決して「韓国人や中国人」など日本社会のマイノリティは皆いい人だ、ということを言いたいわけではない。*人間なので、「〇〇人だからこうだ」という一般化は、どんなコンテクストでもできないと考えている。

韓国人や中国人と入れたのは、神主さんやお坊さんと比べて、ニュースなどでネット上に彼らに対するバッシングがよりある、ということを日々目にしていたからだ。

何なら、上記の「神主さん」を「日本国総理大臣某首相」に読み替えてもいい。もっと言えば、最後に実際助けてくれた人を「日本国総理大臣某首相」に読みかえてもいい。

ここのメッセージは、「あなたが絶対助けてくれない(ほしくない)と思っている、あなたの大嫌いな人」こそ、あなたを助けてくれる可能性(responsabilité)を携えた隣人である。というメッセージなのだ。

繰り返すが、私は、この記事で「キリスト教ってすごいでしょ?」と伝えたいわけではないし、宣伝をしたいわけでもない。*そもそも教会で聞いていたメッセージは、「良きサマリア人のように、分け隔てなく人を助けなさい」、ということに比重が置かれていた。それはそれでいいことだと思うが。

ここで私が言いたいことは、神主、坊さん、レビ人、イエスキリストだったら助ける・助けない論争でも、中国人・韓国人が嫌い・好き論争でもない。*そもそも職業や宗教や国籍で人の本質は見抜けない、と私は思う。

「私」が絶対助けてくれないと思っている、嫌いな「あの人」こそ、私を助けてくれる「私の隣人」なのだ、と気づかされた、ということ。

Avicii_Sunset Jesus

Sunset Jesus, came to me. (夕暮れにイエスが僕のところに来た)                He once was a waitor now he is a savior making money on a street(彼はかつてウェイターをしていて、今は路上でお金を稼いでいる救い主)

My dreams are made of gold, my heart's been broken and I'm down along the road. (僕の夢は黄金で出来ていて、僕の心はずっと壊れていた。この道に沿って歩く中僕は落ち込んでいる)

But I know my dreams keep fading till I get old(でも僕は、僕の夢がお爺さんになるまで色あせないことを知っている)              Breath for a minute, breath for a minute, I'll be okay.(少し息をする、そして息を少しする。ほら大丈夫)*訳by Hatoka Nezumi


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