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こうふくの日曜日


6/16


 夫が娘を見ていてくれることになったので、産後はじめて、ひとりで外食をすることにした。
 父や母を誘うこともできたけれど、わたしには時間がなかったし、なにより今日はひとりじゃないと意味がない気がした。

 次の授乳まで、もう2時間程度しかない。
 時間は限られている。


 わたしは簡単に身支度を整え、車の鍵をつかんで家を出る。
 目的地に駐車して店まで歩く道すがら、ぼんやりと思いを馳せた。


 授乳がないので、前にボタンのついていないワンピースが着られること、

 そのへんに置いてあった小さなバッグをひとつ持てば十分なこと、

 事前に車のエンジンをかけて車内を涼しくしておく必要がないこと、

 チャイルドシートに乗るのを拒否して泣く娘と格闘しなくていいこと、

 階段を気軽に下りられること、

 店内でベビーカーが置ける席を探さなくて良いこと、

 今日のわたしはとても身軽で、何をするにも制約がない。

 できたばかりのチェーン店のハンバーガー屋に入り、一息つく。

 やけに子連れが目についた。

 小さな兄妹をふたり連れた夫婦。
「ここなら入れそうだよ」とすこしだけ大きな声で妻を呼ぶ夫。
 ベビーカーが入れる場所を探しているのだ。わかるわかると内心で頷く。

 休日に家族でハンバーガーを食べる姿は、誰がどう見ても幸せそうな家族だ。


 わたしはどう見えるのだろうか。
 窓際に一人で座り、黙々とバーガーを食べ進める。

 自虐ではなく、事実として、わたしを気にかけている人はどこにもいないだろう。
 それほど店内は騒がしかった。

 子供がいないと、極限まで存在感を消して、静かに食事をすることもできるのか。
 いつものわたしであれば、椅子から抜け出そうとする娘の気をひくためにあらゆる手を尽くしていて疲弊している頃だろう。

 わたしはわたしで、幸福なのだろう。

 出かける時、娘は泣いていた。
 そのときの泣き声が耳に残って、いまでも少し反響しているような気がする。

 さみしいなんて思ってやるものか、という気概で家を出たけれど、わたしは母という役割から降りることはないのだろうと、再確認し、それが幸福なことと知りつつも、そんな自分に少しだけうんざりする。


 毎日休みなく娘の成長をそばで見ている。

 彼女は一日ごとに、いや、一瞬ごとに変化するのでとても愉快だ。
 それは同時に、かたときも目を離せないことを意味する。

 娘が生まれた瞬間から、わたしの時計だけ、故障している感覚に襲われる。
 時にそれは目にも留まらぬ速さで過ぎ去り、時に永遠のようなひとときがある。
 わたしは、幸せと窮屈さを同時に感じて生きている。

 それで良いのだろう。

 この“良い”は、“上等”ではなく“適当”という意味の“良い”だ。

 諦めと言い換えてもいい。ここでの諦めるという言葉は、悲しいことではなく、清々しい降伏という意味だ。





「この時間は今しかないのだから」とよく言われる。

 それは、たいてい「今しかないから、楽しんで」という意味で使われる。

 そして、もうそれを手に入れることのできない人から、懐かしむような、穏やかな声で。
 その言葉には慈愛が含まれていることは理解しているけれど、時折「ない言葉」が勝手に付け足されて聞こえてくるような気がする。

 今しかないのだから、「辛いと思うのは間違っている」
 今しかないのだから、「泣き言を言うな」
 今しかないのだから、?

 楽しむという言葉は、悲しんではいけない、という意味ではないのに。

 誰にもかけられていない言葉で自分を苦しめるのは、なんだか馬鹿らしい。

 今しかないのだから、辛いと思うのも、こうしてたまに半ば無理やりに勝ち取った自由を前に戸惑うのも、今しかない大切な気持ちだ。
 その気持ちを無視することなく、優しく撫でて飼い慣らしたいとすら思う。

 だってその方が、毎日を大切に生きている気がする。

 もう、約束の時間が迫っていた。
 あーあ、帰りたくないな。

 でもきっと、帰ったら帰ったで、かわいい娘を抱きしめるのだろう。

 わたしは、たぶん、もうずっと、この矛盾を幸福と呼びたい。

 いや、そう呼ぶことに決めたのだ。


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かのりんか|よるの帳
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